206 本門佛立宗の本行寺(東新町)

更新日:2018年12月13日

本行寺旧本堂(当時、東代町)

山門には「本門佛立宗松栄教会」とある。昭和44年ごろ撮影。山門前は、今は埋めたてられたが、寺池の堤が松原三中校門までのびていた。本行寺提供。

本行寺新本堂(東新町3丁目)

平成24年、旧本堂が建て替えられて一新された。

本尊の「御題目」と日蓮の「高祖手自開眼霊像」

像には、「昭和二十四年十月吉祥日、護持松原玉江親会場」「本門佛立宗本成寺住持日亘奉拝写」とある。

日蓮・日隆・日扇の三祖 大阪・本成寺から松原へ

 東新町三丁目の松原三中校門前に本門佛立宗の本行寺(ほんぎょうじ)が建っています。山号を松栄山(しょうえいざん)と称します。同寺の西側はマンションが建ち並んでいますが、昭和六十年に埋めたてられるまでは寺池が水をたたえていました(「歴史ウォーク」122)。同地は、江戸時代には丹北郡東代村でしたが、東代の集落は近鉄電車の南西、西除川に沿って発達していました。本行寺のあたりは、池と一面の田畑が広がっていたのです。

 本行寺がここに建てられたのは、それほど古いことではありません。もともとは昭和二十年(一九四五)、戦災で大阪市福島区玉川の本門佛立宗(当時は本門佛立講)の本成寺(ほんじょうじ)信徒さんが河内松原駅南側に移ってこられて講がつくられ、松原にも教化が広まったのです。本成寺住職の日顕(にっけん)が開基となりました。

 昭和二十七年、河内松原駅に沿う堺ー大和高田線の北側、松原中学校に至る信号のあたり、今の上田三丁目に新道場が建てられました。そして、昭和四十三年になって、上田から現在地に移り、新本堂が完成したのです。それまでは、本成寺第一玉江組や本成寺松原別院、さらに本門佛立宗松栄教会などと呼んでいましたが、昭和四十五年に現在の松栄山本行寺となったのです。

 日蓮聖人が鎌倉時代に開いた法華宗(日蓮宗)は、のち法華経の解釈などを巡り、各宗派にわかれていきました。室町時代になって、本門法華宗の京都の本能寺や、尼崎の本興寺、堺の顕本寺、河南町の法華寺を創建し、牛窓(岡山県)の本蓮寺を再興した日隆が布教に努力しました。日隆は、日蓮の孫弟子時代に当たります。

 幕末に入って、日隆の流れを汲んだ京都の日扇(長松清風)が、安政四年(一八五七)に本門佛立講をおこしました。

 日扇は、明治二年(一八六九)に由緒寺院でありながら、当時無住となっていた法華宗の妙蓮寺末の宥清寺(現京都市上京区)に移り、明治十一年(一八七八)には、「本門佛立妙講一座」の法式を公布して、本門佛立講の組織を整えていったのです。しかし、本門佛立宗として正式に発足するのは、昭和二十二年(一九四七)のことでした。日扇が本門佛立を開講した安政四年以来、実に八十九年目に一宗独立が果たされたのです。

 本門佛立宗は、日蓮を高祖、日隆を門祖(再興の祖)、日扇を開導の三祖としています。本門佛立の本門とは、法華経二十八品のうち、後半の十四品をいい、釈迦自身が説き残した教えを広め、仏がお立てになられた宗旨という意味です。

 京都の宥清寺を本山とする本門佛立宗は、大阪でも幕末ごろから明治前期にかけて、教えが広まっていきました。明治二十三年(一八九〇)、日扇七十三歳の時、野田玉川で本成寺の前身となる大阪玉江親会場の開筵式が行われました。本行寺は、この本成寺を親寺として始まったのです。

 本行寺では、平成二十四年十二月、新本堂が建立されました。本堂内々陣には、本尊である日蓮の「南無妙法蓮華経」の御題目が祀られています。その左右には「三箇之中 一大秘法」「本門肝心上行所傳」の教えが添えられています。

 御題目の前には、日蓮が自ら開眼したとされる「高祖手自開眼霊像」とよぶ、日蓮座像も祀られています。日扇が、幕末に開導した本門佛立でしたが、なかなか世の中に受け入れられませんでした。明治二年、やっとの思いで宥清寺を借り受けましたが、その時、同寺に祀られていたのがこの日蓮像だったのです。日扇は感涙し、本門佛立宗では同像を「生身の御霊像」として、その写しの木像がつくられ、各寺に安置しています。

 全国で約三〇〇か寺ある本門佛立宗の中で、本行寺は、松原の地で七十年の歴史を刻んでいるのです。

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