202 油上の施福寺と薬師信仰

更新日:2018年12月13日
八幡神社の写真

八幡神社(天美西3丁目) 鳥居の右側に薬師講中が奉献したことを刻んでいる。

薬師・地蔵堂の仏像

中央の薬師如来をはじめ、日光・月光菩薩、四天王、十二神将、阿弥陀如来、釈迦如来、地蔵菩薩、弘法大師像などを祀る。

観音堂廃寺の復元模型の写真
観音堂廃寺の再現された山門の写真

観音堂廃寺の復元模型と再現された山門(天美西小学校、天美西青少年グラウンド)
2000年、2001年、天美西小学校提供。

施福寺の写真

施福寺(天美西3丁目) 山門横に薬師・地蔵堂が建つ。もともとは薬師堂であったが、今は油上地区の地蔵も祀られている。

古砂庵・観音堂廃寺の変遷 「河内鑑名所記」の砂村薬師

 現在の天美西一~八丁目あたりは、江戸時代、河内国丹北郡油上村でした。旧集落が形成されている天美西三丁目の油上公民館の北側には、施福寺が建っています。

 施福寺は、東本願寺を本山とする真宗大谷派です。寺伝によると室町時代に道芳(天文二十二年 —一五五三年三月十五日没)が庵を開いたのが起こりとされています。油上は江戸時代前期までは隣りの芝村と分かれるまで砂村と呼ばれていました。そのため、古砂庵といい、施福寺の山号は古砂山と号します。天美小学校の西側には、古砂の小字名が見られます。

 施福寺はもともと、寺名からも西国三十三ヶ所霊場である和泉の槇尾山施福寺と同じく、真言宗であったと思われます。江戸時代初期までには、浄土真宗に改宗したようです。

 本山の東本願寺が末寺へ免許下付した『申物帳』とよぶ記録によると、施福寺に対して

(一)寛文三年(一六六三)四月十六日に「河州丹北郡由上村惣道場施福寺卜御免」として「木仏寺号」

(二)同日に「御開山様」

(三)同年五月二日に香炉台・燭台・花立てを置く「前卓」

(四)同年七月二日に「宣如様」

(五)翌四年七月二十六日に「太子七高祖」

が与えられました。江戸時代前半に寺号や本尊の阿弥陀如来像、宗祖親鸞聖人絵像、東本願寺二世の宣如上人絵像、聖徳太子絵像などが下され、寺観が整っていったのです。

 施福寺山門横に薬師・地蔵堂が建っていますが、堂内には薬師如来像を中心に日光菩薩・月光菩薩像、四天王(多聞天・広目天・持国天・増長天)や十二支の獣を頭につけた十二神将などが祀られています。仏像は、平安時代後期以降、現在の大和川左岸から今池水みらいセンターの東側にあったとされる古寺のものと伝えられています。同地には、薬師堂・観音堂・堂の前などの小字名が残り、大阪府埋蔵文化財センターの調査で、平安時代後期から鎌倉時代後期の大量の軒丸瓦や軒平瓦が検出されています。字名を採って観音堂廃寺と命名されました(「歴史ウォーク」35・43)。

 ところが、江戸時代初めの慶長二〇年(一六一五)の大坂夏の陣で、同寺も焼失し、以後、廃寺となったようです。このため、持ち出された仏像を施福寺に移し、薬師堂を建立したと言われています。

 油上村では薬師信仰が厚く、延宝七年(一六七九)に発刊された『河内鑑名所記』に「油上村の薬師、砂村の薬師とも云石仏也、御長一尺三寸」と記されています。四十センチほどの石製薬師如来が有名で、霊験あらたかだったのでしょう。現在、堂に祀られている薬師如来は木造ですが、像高はほぼ石仏と同じです。施福寺本堂前には、享保十二年(一七二七)三月八日に建てられた「薬師如来堂前常夜燈」も現存しています。

 近代に入っても、油上では母乳がよく出るように、米五合を薬師如来にお供えし、翌日はそのお下がりをお粥にして食した風習がありました。反対に、母乳を止めたい時は、しぼり母乳を供えて祈願すればよいと伝えられています。

 施福寺の東側に、八幡神社が鎮座していますが、鳥居に「奉献 薬師講中」「文化十二乙亥九月吉日 現住法印覚道」と刻まれています。ここでも文化十二年(一八一五)九月に、鳥居が薬師講中によって奉献されたのでした。

 松原第五中学校区地域教育協議会では、古寺の存在を地域の人々に知ってもらうため、地元の方々が大寺の復元模型や仁王像に守られた山門を製作し、郷土愛を育んできました。七堂伽藍の遺構が、地上に現れるロマンを追い続けたいものです。

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