203 芝村に創建された安楽寺

更新日:2018年12月13日
「御開山様」箱書の写真

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「芝村安楽寺」銘の喚鐘の写真

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「一如上人」絵像の写真

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  1. 「御開山様」箱書
    本堂に祀られる親鸞聖人絵像をおさめるもの。貞亨2年(1685)。今回の調査で見い出された。
  2. 「芝村安楽寺」
    銘の喚鐘 本堂軒下に吊される。
  3. 「一如上人」絵像
    延宝~元禄年間に東本願寺から下付されたと思われる。本像は今回の調査で見い出された。

延宝・元禄期の青石の墓石群

元々本堂の西側、いちょうの木の下にあったが、昭和61年の境内整備にあわせて、まとめられた。

安楽寺の写真

安楽寺(天美西3丁目)

山門前は、芝から油上に通じる古道。芝の集落は、この道の両側に発達した。

砂村に受け継ぐ真宗大谷派延宝・元禄期の青石の墓石群

 天美西三丁目の芝公民館に接して、安楽寺が建っています。東本願寺を本山とする真宗大谷派です。江戸時代前半の延宝七年(一六七九)、先勝によって開基されました。

 江戸時代前半ごろまで、今の油上・芝地区の天美西一~八丁目あたりは河内国丹北郡砂村と呼ばれていました。現在、天美我堂七丁目にある真宗大谷派の善正寺は、摂津平野(大阪市)・城連寺村(天美北)を経て、元和二年(一六一六)に砂村に移ってきました(「歴史ウォーク」47)。さらに、善正寺は寛永十八年(一六四一)、現在の我堂村に移るのですが、そののち、砂村は油上村と芝村に分かれていきました。

 東本願寺の記録に、寛文三年(一六六三)四月、「由上村惣道場施福寺」とありますので、寛文三年までには、油上村の名と真宗大谷派の施福寺が法灯を伝えていたことがわかります(「歴史ウォーク」202)。しかし、この頃、芝村には寺院がなく、まだ、砂村の地名も併存していたようです。

 安楽寺本堂に、本尊の阿弥陀如来像が祀られていますが、その隣りに宗祖親鸞聖人絵像が掛けられています。寺には、絵像をおさめた木箱が残されており、その箱書に「御開山様 貞享二年六月十四日 善正寺下 河州砂村惣道場安楽寺」とあります。創建の延宝七年から六年後の貞享二年(一六八五)に安楽寺に下付されたものですが、先に砂村にあった善正寺が安楽寺の創建にも関わっていたようです。

 この時期、すでに油上村が成立していましたが、芝では、箱書からも砂村が依然として使われていたことがわかります。安楽寺では、延宝七年に東本願寺十六世となった一如上人の絵像も下されています。一如は元禄十三年(一七〇〇)に亡くなりますが、ここにも「一如上人 河州砂村 惣道場安楽寺」と裏書があり、元禄前後でも砂村がみられます。

 旧本堂は、元文五年(一七四〇)二月に再建されていました。それが、明治三十八年(一九〇五)や昭和二十二年(一九四七)に屋根の修理などが行われ、昭和六十一年(一九八六)十一月に現本堂が新築されたのです。この時、山号がなかったことから、「芝宝山」と名づけられました。

 本堂にあがると、喚鐘が吊されています。池の間とよぶ表面に「河内丹北郡芝村 安楽寺」「天明八年八月」「願主秀意」とあり、別の面にも「干時天保三壬辰四月」「再寄付之」「伊兵治 元右衛門」と刻されています。天明八年(一七八八)につくられた鐘が、天保三年(一八三二)に再鋳されたのです。天明年間では、もう砂村は使われず、芝村とあります。

 また、境内の南西隅に九基の自然石がまとまって祀られています。いずれも、草創期ごろの墓石です。最も古いものは、延宝八年(一六八〇)に亡くなった「釋尼妙清」墓です。ついで、元禄二年(一六八九)七月十七日の「釋浄意」墓をはじめ、元禄三年、九年、十二年、十四年と元禄年間の年号を持っています。市内では、江戸時代前半の墓石は少なく、貴重な歴史遺産といえるでしょう。そのうえ、その形状が一般的な墓碑ではなく、自然の青石であることも特徴的です。

 明治時代に入って、安楽寺二十一代の砂本光照は文化八年(一八一一)より明治十一年(一八七八)までの略記とともに、過去帳を残しています。また、光照は寺子屋で教鞭をとった後、明治八年(一八七五)九月には、二年前にできた今の天美小学校の教員ともなり、明治三十四年(一九〇一)十月までの二十六年間、ついで三宅小学校でも一年十一カ月、教育をにないました。

 光照は、今の寺の興隆を支えた住職として、忘れてはならない学問僧だったといえます。

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