201 河内松原教会と浪花教会牧師館

更新日:2018年12月13日

河内松原伝道所会堂の募金趣意書

昭和31年5月12日。三井久・大下角一や阪田素夫の名が見られる。南大阪教会長老の阪田は、「サッちゃん」の作詞者として有名な詩人阪田寛夫(南大阪教会で洗礼)の父である。部分略。「河内松原教会五十年史年表」2005年より。

河内松原伝道所の同意書

昭和30年6月29日。河内松原教会は、日本基督教団の伝道所からスタートした。浪花教会の三井久が同意している。「河内松原教会五十年史年表」2005年より。

田畑に囲まれたさくら通り

昭和21年。現柴垣会館の東側から西南の岡方面をのぞむ。隣組対抗の仮装行列のようす(個人蔵)。

桜の季節のさくら通りの写真

桜の季節のさくら通り(柴垣1丁目)

柴垣会館の東側から北をのぞむ。「ツールド大阪 まつばらウォーキングコース」の標識が建つ。平成23年4月撮影。

同志社大学学長・大下角一 詩人・阪田寛夫の父も協賛

 明治七年(一八七四)、アメリカ人宣教師のゴルドンらは、大阪初のプロテスタント教会である現在の日本基督教団大阪教会(大阪市西区江戸堀)を設立しました。ゴルドンは、同志社を創立した新島襄や妻の八重に英語を教えたことで知られています。

 三年後の明治十年(一八七七)、アメリカ人宣教師などの助力を受けずに、沢山保羅ら日本人だけによって、わが国で最初の自給教会である浪花公会も大阪市中央区高麗橋に誕生しました。同公会はのち、日本基督教団浪花教会となり、現在のレトロな建物は昭和五年(一九三〇)、著名なアメリカ人建築家のヴォーリズが設計・指導したものです。ゴシックスタイルで、大きなアーチ窓のステンドグラスが印象的です。

 ところで、浪花教会は昭和二十七年(一九五二)、当時の新堂町であった柴籬住宅(「歴史ウォーク」200)の中に、新しく牧師館を購入しました。柴籬住宅は昭和初年から、大阪市北区の小谷工務店が開発したものです。戦後も、大阪府の分譲で広げられ、河内松原駅南部の住宅地として発展してきました。

 柴籬住宅の真ん中を南北に走る、いわゆる「さくら通り」の西側に柴垣会館(柴垣一丁目)がありますが、浪花教会の牧師館は会館横の通りに面した東側に建てられました。大阪の浪花教会には敷地内に牧師館が無かったことから、当時の浪花教会牧師の三井久は、柴籬住宅の自宅から、高麗橋にかよったのです。同時に、三井牧師宅では、近くの人々が集まり、子供会や家庭集会も行われました。

 三井牧師が松原に移ってきた頃、市内にはキリスト教会はありませんでした。そこで、前号の通り、昭和三十年(一九五五)、加藤貞治と歌手の渡辺はま子夫妻が所有していたドイツ館を購入して、河内松原教会が設立されたのです。

 河内松原教会は、翌年に初代牧師が赴任するまで、三井が浪花教会牧師をつとめながら、兼任牧師となりました。その縁で、初期の頃は、浪花教会から礼拝堂の長椅子や聖餐式用具の寄贈を受けています。ただ、河内松原教会のスタートは浪花教会の三井牧師館が契機になったといえますが、浪花教会の伝道所ではありません。

 教会が柴籬に出来るまで、信徒さんは浪花教会や大阪教会・南大阪教会(大阪市阿倍野区)・阿部野教会(同区)などの会員でしたが、やがて河内松原教会へ移られたのです。ですから、柴籬の信徒さんが中心となってできた教会といえるでしょう。

 昭和三十一年(一九五六)九月、南大阪教会牧師であり、同志社大学学長をつとめていた大下角一が教会を訪れ、特別伝道集会が開かれました。大下は明治初期、熊本バンドの一員で、新島襄が新設した同志社英学校に移った海老名弾正の娘あやを妻とし、海老名のリベラル神学の影響を受けた人物として有名です。三井は、大下に河内松原教会への伝道師派遣を委ねたかったのですが、大下は多忙のため叶いませんでした。それでも、大下は柴籬住宅の信徒の家族に洗礼を与えたこともありました。

 「さくら通り」東側にあった浪花教会牧師館は、のちに三井の転出とともに建て直されました。「さくら通り」の愛称は、南北の通り三五〇メートルの両側に、数十本の桜が植えられているからです。

 柴籬住宅では、戦前から通りを利用して隣組対抗の運動会などを行い、親睦をはかってきました。通りは、大阪府国民健康保険団体連合会の生活習慣病予防のための「ツールド大阪 まつばらウォーキングコース」となっています。オアシス広場の鯉野池(「歴史ウォーク」137)や教会周辺を歩かれてはいかがでしょうか。

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