217 松原市民運動広場と清堂遺跡

更新日:2018年12月13日
ヤマモモの調査の写真

ヤマモモの調査(スタンド北側) 市民ボランティアの「まつばらまちの案内人」によって樹木調査が行われた。

運動広場外周の南西に植えられたシラカシ

運動広場外周の南西に植えられたアラカシ

松原市民運動広場入口(岡7丁目) の写真

松原市民運動広場入口(岡7丁目) クスの大木がそびえる。樹齢40年ほどといわれる。

松原市民運動広場の発掘(昭和61年)の写真

松原市民運動広場の発掘(昭和61年) 当時は岡7丁目所在遺跡とよんだ。(松原市教育委員会提供)

古代から中世の「松原」は「マツ」原ではなく「カシ」原

 岡七丁目の国道三〇九号線西側に松原市民運動広場があります。昭和六十三年(一九八八)三月、市制施行三十周年記念事業としてオープンしたものです。平成九年(一九九七)十月には、大阪府内で開催された「なみはや国体」の成年男子のサッカー会場にもなりました。当時のJリーグブームに乗り、多くの観客がつめかけました。

 この地は、東に大きく蛇行した西除川の氾濫原に面した沖積段丘の縁辺に立地しています。東側には王仁(わに)の聖堂伝承で知られる清堂池から流れ出る清堂川が西除川に合流しています。すぐ南側には、飛鳥時代に難波と大和を結んだ最古の官道の一つとされる竹内街道(丹比道)が走っています。

 周辺ではこれまでも遺跡が見つかっていましたので、グランド造成前に発掘調査が行われ、縄文・弥生時代から古墳時代、その後、断絶はあるが、平安後期から鎌倉時代の遺構や遺物が検出されました。

 縄文・弥生時代のものとしては、石鏃(せきぞく)などの狩猟具・土器や、石器制作の過程でできる剥片が多量に見つかりました。狩り場であるとともに、近くに集落があったことが推定されます。

 古墳時代では、四世紀末から五世紀の土師器とともに、溝や井戸が見つかっています。やはり集落があり、水田耕作の遺構であると考えられます。

 平安後期から鎌倉時代になると、何度か建て替えられた堀立柱建物が数十棟検出され、それらの建物は溝によって区画されていました。建物はそれぞれ井戸を伴っており、素堀り井戸もあるが、多くは曲物を井戸枠として転用しています。建物の西側には水田が広がり、灌漑溝も見られました。瓦器埦・皿・羽釜などの日常雑器のほか、陶磁器、唐草文・巴文(ともえもん)などの文様のある瓦が大量に出土しています。特に、青磁・白磁など中国からの輸入磁器が多いことが注目されます。

 鎌倉時代を過ぎると、集落は検出されず、以後、水田や畑・雑木林となっていきました。この地から南へ西除川沿いの岡七丁目から清堂池南側の岡一丁目あたりまでは清堂遺跡とよばれ、古くから人々の生活の場だったようです。

 ところで、清堂遺跡に限りませんが、隣接する北部の上田町遺跡など市内の遺跡の古代から中世の風景を復元すると、興味あることがわかりました。地中に埋まったままの樹木や草花の花粉をとり出してみると、自然に茂った照葉樹林のカシ類がほとんどでした。

 松原の地名の由来が「松生いし丹比の松原」(反正天皇の丹比柴籬宮が、天皇崩御後、荒れはて松林となった)と呼ばれるように、古代以降、市域には松林が繁茂していたと考えられています。ところが、以外にも「マツ」原ではなく「カシ」原だったのです。

 もちろん、カシの林だけではなく、モザイク的にシイやスギ、もちろんマツも生えていました。しかし、清堂遺跡や上田町遺跡などの調査でわかったように、カシの林が広範囲に広がり、集落や水田(イネ類の花粉もたくさん見られます)が混在する景色だったのです。

 それが近世直前から、カシやシイなどの照葉樹林が減っていき、マツやクスなど人々の手になる植林によって里山や薪炭林に変わっていったのでした。

 松原市民運動広場の外周六〇〇メートルのウォーキングコースには完成時、多種多様の樹木が植えられました。入口にはクス、西南にかけてアラカシ・シラカシ・クヌギ・シイ・ニレ・スギ・ケヤキ・メタセコイヤが、スタンド側にはマツやヤマモモなど、市民の憩いの森となっています。天美我堂までの西除川沿いにウォーキングできる四キロの西除川遊歩道も、市民運動広場入口横を流れる清堂川からスタートします。

 古代・中世の松原の風景を浮かべながら、散策されれば興味も増すのではないでしょうか。

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