展示された岡二丁目所在遺跡の遺物(大阪府教育委員会蔵、堺市立みはら歴史博物館写真提供)
松原で活動した河内鋳物師 鉄滓量が多く鉄鋳物を製作
昨秋、松原市商店会連合会は、市域の三宅・阿保・上田・新堂・岡・丹南を南北に貫く中高野街道を歩く「ぶらり中高野街道スタンプラリー」を二か月にわたって行いました。街道沿いのお店で買い物をしたり、おいしい料理を食べ、お店でスタンプをおしてもらって特典をゲットし、点在する史跡や文化財も見て歩く企画でした。歴史のガイドマップとして、「ぶらり中高野街道 見どころ20選」もつくられ、マップ片手に多くの方々が街道を歩かれ、大好評でした。
その「見どころ20選」で番外として、紹介されたのが、府営松原岡住宅の緑地帯に建つ岡二丁目所在遺跡の説明板でした。中高野街道が住宅内を通っており、歴史通の人々にもほとんど知られておらず、説明板に見入る市民も多かったようです。
岡二丁目所在遺跡は、平成四年(一九九二)、岡二丁目の府営住宅の建て替えに伴い見つかった河内鋳物師の工房跡です。河内鋳物師は、平安時代末期から鎌倉・室町時代、堺市美原区余部・真福寺・大保・太井や東区日置荘・八下をはじめ、市域丹南・立部・岡などで活動した鋳造技術者でした。歴史ウォークでは、「32・河内鋳物師の工房」(平成十一年九月号)で掲載しましたが、今月号で改めて紹介するのは、一月十二日(月曜日、祝日)まで、堺市立みはら歴史博物館(美原区黒山)で「河内鋳物師の誇り―鍋・釜づくりの名人たち」と題して岡二丁目所在遺跡の遺物が展示されているからです。
岡の地は、平安時代以降、松原荘に含まれ、京都・広隆寺(こうりゅうじ)の寺領でした。室町時代の十五世紀中頃の広隆寺の文書に「松原荘に鋳物師が住んでおり、その年貢を免除した」とあります。この松原荘の鋳物師たちの工房が岡二丁目で見つかった遺構・遺物なのです。
調査では、平安末期の大型建物のほか、鎌倉時代の溶解炉(ようかいろ)二基、鋳型(いがた)を据えたと思われる土坑(どこう)、鉄滓(てっさい)が詰まった土壙(どこう)が検出されました。また、室町時代の土坑から、鉄滓や銅滓(どうさい)とともに鋳型や炉壁・フイゴの羽口破片も出土しています。岡工房では、多くの鉄滓が見つかったことから、鉄鋳物を中心に製作していたのでしょう。
今回の展示では、鎌倉時代の炉壁片(四点)・鋳型片(八点)・フイゴの羽口(二点)・瓦器椀(がきわん)(六点)・東播系(とうばんけい)須恵器すり鉢(一点)・青磁椀(せいじわん)破片(二点)・白磁壺破片(一点)と室町時代の足付羽釜(一点)が出品されています。また、調査した大阪府教育委員会が提供した発掘当時の溶解炉が据えられていた遺構などもパネル展示されています。
河内鋳物師が美原だけでなく、その北部の松原市域にまで活動拠点があったことにも焦点をあて、その足跡をたどっているのです。展示担当で、図録作成に携わった同館学芸員の柿沼菜穂さんに、いろいろと教えていただきました。
河内鋳物師には、鍋・釜などの日用雑器・農具をつくる「土鋳物師」と、寺社の梵鐘(ぼんしょう)や大湯船を生産する「廻船(かいせん)鋳物師」がいましたが、岡工房がどちらの集団であったのか断定することはできません。また、出品のうち東播系須恵器は、今の兵庫県の播磨東部地域で作られた土器で、青磁や白磁は中国からもたらされたものです。いずれも中世の土器流通を示す資料です。
これまで、松原市域にいた河内鋳物師の遺物が展示されることが少なかったので、今回は多くの人々に博物館に足を運んでいただければと思います。河内松原駅から近鉄バス余部行きで大保下車前です。松原市民でも、小・中学生や六十五歳以上の方などは無料です。
中高野街道をはさんで松原警察署岡町交番の前に建つ遺跡説明板に足を運ぶたび、およそ十二~十五世紀に活動した河内鋳物師のふるさとがしのばれるのです。