いずれも保田紀元氏撮影。
寺院建築を取り入れ、入口左側(西側)に地蔵堂がある。
出岡の真宗大谷派の寺院跡 公民館安置の阿弥陀如来像
河内松原駅方面から来た中高野街道が新堂三丁目の融通念仏(ゆうずうねんぶつ)宗・浄光寺(じょうこうじ)(「歴史ウォーク」130・131)前を通り、岡の集落に入る手前に出岡公民館が建っています。そこは岡二丁目ですが、岡の本村からは出入口的な性格を持っていましたので、特に出岡とよばれてきました。
いつごろから、出岡と称される地域になったのかはよくわかりません。昭和前半ごろまでの地図を見ると、岡とは田畑で隔てられており、出郷(でごう)として集落がまとまっていたのでしょう。
歴史的には、十四世紀前半の南北朝時代、北朝方の丹下(たんげ)氏が松原荘に松原城をつくったのですが、松原城は、別に剰我(じょうが)城ともよばれていました(「歴史ウォーク」41)。松原荘は、岡・新堂・上田の三村がまとまって形成された大村ですので、この剰我が、出岡の地名の初見かもしれません。反対に、出岡の名が残ることから、剰我城を出岡に比定するほどです。
今では、岡と出岡の旧集落の間にはびっしりと住宅が建ち、区別がつきにくくなっていますが、出岡公民館は一般の建物とは違い、屋根に一対の鴟尾(しび)を設けた寺院建築をとり入れています。では、なぜ出岡公民館が寺院様式なのでしょうか。それは、ここに西蓮寺(さいれんじ)という真宗大谷派(東本願寺が本山)の寺が江戸時代にあったからです。
公民館の中に入ると、奥は寺の内陣となり、正面に「西蓮寺」の額とともに換鐘(かんしょう)や、宮殿(くうでん)に祀られた本尊の阿弥陀如来像が立っておられます。同寺は近代に入って廃寺となりましたが、出岡の檀那寺として、何百年にもわたって、人々の信仰を守ってきました。
西蓮寺は、江戸時代前半の元禄五年(一六九二)十一月に出された松原村の「寺社帳」に、次のように記されています。
「浄土真宗東本願寺堺御坊(ごぼう)末寺、西蓮寺、看坊春了」
「境内 東西四間、南北拾間弐尺」
「道場 梁行弐間、桁行五間 瓦葺」
「庫裏(くり) 梁行壱間(いっけん)半、桁行弐間 瓦葺」とあります。つづいて、
「右之道場往古ゟ(より)有来り、開基年暦 知レ不申(もうさず)、代々看坊ニ持せ来り候(そうろう)」と見られます。
つまり、瓦葺きの本堂である道場と住職の看坊が住む瓦葺きの庫裏が建っていました。また、創建年はわかりませんが、古くから同地にあり、住職が住んでいたとあります。この時は、春了が寺を守っていました。東本願寺を本山とする浄土真宗ですが、堺御坊(現難波別院堺支院、堺市堺区)の末寺であったこともわかります。
同じ松原村では、岡の円正寺や泉福寺、上田の願正寺も、この「寺社帳」によると、やはり堺御坊の下にありました(「歴史ウォーク」136・178・179)。
元禄五年の「寺社帳」から十三年後の宝永二年(一七〇五)の「河内国丹北郡松原村明細帳」にも、「東本願寺宗 西蓮寺」としています。境内も東西が七メートル強、南北が一八メートル強と南北に広い敷地は変わっていません。
公民館入口の西側には、地蔵堂も見られます。中には、地蔵菩薩像が光背(こうはい)に浮彫りされ、右手に錫杖(しゃくじょう)、左手に宝珠を持つ通例のお姿で祀られています。
光背には「釋覚智(しゃくかくち)」「享保(きょうほう)廿乙卯年三月十一日」と彫られています。江戸時代中頃の享保二十年(一七三五)三月十一日に造立されたもので、覚智という人が関わりました。光背の上部が少し欠損していますが、西蓮寺に付随するお地蔵さまとして、今も信仰をうけています。
現在の公民館は、もともとあった遺構を新しく建て直したものです。江戸時代、お寺は地域の人々の寄り合いの場でしたが、そこが公民館として活用されて残っているのは、市内では出岡だけです。