21 市名「松原」の登場

更新日:2018年12月13日
昭和6年ごろの柴籬神社参道の松並木の画像

昭和6年ごろの柴籬神社参道の松並木
柴垣方面から上田7丁目の柴籬神社をのぞむ。
なごりの松は今も神社馬場先に2本ほどが残っている(柴垣1丁目、田中義宣氏原蔵)。

松の緑に包まれた黄金の瑞穂の地か

  歴史の上で、松原の名はいつから見られるのでしょうか。その初見は、平安時代の「御室御所高野山御参籠日記」の久安4年(1148)閏6月10日および11日条に見られる記事です。

 そこには、京都仁和寺の覚法法親王が紀州の高野山参籠のため、10日午前4時に仁和寺を出発し、船で淀川を下って窪津(大阪市中央区天満橋)で下船し、輿に乗って松原に至ったとあります。史料には「子刻許、到着松原庄∧広隆寺庄∨」と記されています。同地で1泊した法親王一行は、11日午前6時には松原を発ち、石瀬(河内長野市)を経て高野山に向かっています。松原荘が京都太秦の広隆寺領であったことがわかります。

 松原荘は、現在の近鉄河内松原駅南側の上田・新堂・岡地区に該当します。平安時代の松原荘の名が中世、近世、近現代と続いて、現在の市名に受け継がれているのです。

 当地が、なぜ松原という名になったのかはよく分かりません。考古学者の末永雅雄先生は、『松原市史』(1985年)の序文で市域は「かつて松の緑と黄金の瑞穂の景観をもっていたかも知れない」と述べています。

 松原市は、昭和50年(1975)2月1日の市制20周年記念日に、市の木をマツ、市の花をバラと制定しました。この2つを合わせると「マツバラ」になります。マツとバラとによる緑と花の多いうるおいのある街づくりによって、市を発展させたいという願いがこめられているのです

 ところで、歴史的にみて市域の植生を復元するのは容易ではありません。しかし、岡7丁目から丹南1丁目の清堂遺跡では、6世紀後半にあたる古墳時代後期の集落跡とともに、多くの植物遺体が見つかっており、その花粉分析結果から、おおまかな景観が復元できたのでした。

 それによると、7世紀に入るころまでは、清堂遺跡を北流する西除川流域はアカガシ亜種やシイノキ属の樹木がうっそうと生育している照葉樹林の様相を呈していました。ところが、7世紀以後の古墳時代末期になると、イネ科が急増するにともない、アカガシ亜属やシイノキ属が少なくなり、これに代わって、マツ属やツガ属、スギ属などの中間温帯林要素が目立ってきたのです(『清堂遺跡』ー中央環状線丹南交差点立体化工事ー大阪文化財センター、1993年)。

 これは、西除川上流の狭山池が7世紀初期に造られ、灌漑が便利になるにつれ、下流の中位段丘上が農地として開発されたので、照葉樹林が伐採された可能性が高いでしょう。

 一般的にみて、市名の由来となったマツの植生は、7世紀以後の当地の開発にともなって、徐々に広がっていったと推測されます。

 ただ、近年の松林枯損によって以前ほど松は見られなくなっています。今後、市名にふさわしい緑の景観づくりが望まれるのです。

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