28 河内鋳銭司の設置

更新日:2018年12月13日
和同開珎の写真
治平元宝の写真

天美西の大和川今池遺跡から出土した和同開珎(左)。
右は同時に見つかった中国北宋銭の治平元宝。
(大阪府教育委員会保管資料)

和同開珎は丹比野でつくられたか

 わたしたちはこれまで、和銅元年(708)に初めて和同開珎というお金がつくられたと学んできました。和銅3年、都は藤原京から平城京に移りますが、和同開珎は奈良の都を建設するために、つくられたと考えられています。

 もっとも、それ以前にも天武天皇の12年(683)に銅銭を使用することや、持統天皇8年(694)と文武天皇3年(699)に貨幣鋳造のために、鋳銭司という役所が置かれたことを『日本書紀』や『続日本紀』は記していました。そこで、この貨幣は一体何か、長い間大きな謎でした。

 ところが最近、奈良県明日香村の飛鳥池遺跡から33枚の富本銭が見つかり、それが日本最古の貨幣であることが確かめられました。

 過去に、富本銭は平城京などから6枚ほどが発見されており、それは奈良時代のまじない銭と考えられていました。しかし、7世紀後半に宮都のあった飛鳥で当時の富本銭がまとまって出土した結果、これらは天武天皇時代の銅銭であると見られるようになりました。

 このように、歴史をくつがえす大発見となった富本銭の存在は、あらためて和同開珎をクローズアップさせました。

 『続日本紀』には和銅元年2月、催鋳銭司が置かれ、多治比真人三宅麻呂が任命されたとあります。ここに、和同開珎の鋳造が始まりました。和銅2年8月には、すでに河内鋳銭司が置かれていたことも記しています。
 実は、この和同開珎鋳造の中心として活動したのが河内鋳銭司でした。和同開珎は全国の遺跡から5000枚ほどが発見されていますが、とくに大和をはじめ河内・山城・近江などで多数出土しています。

 河内鋳銭司がどこにあったのかは分かりません。政庁の河内国府に近く、16枚の和同開珎が発見された藤井寺・柏原市境に広がる船橋遺跡の地をあげる見方があります。

 しかし、松原から美原の丹比野を候補地とすることもできます。松原市岡・立部・丹南から美原町真福寺・大保・太井にかけては、平安時代以降、全国的規模で梵鐘をつくっていた丹南鋳物師の故地でした。もし、河内鋳銭司が当地に置かれていたならば、その鋳造の伝統を引き継いだとも考えられます。

 この推定は、先の催鋳銭司に丹比野と関わる多治比氏が任命されていることや、のち多治比真人家主・多治比真人乙安といった官人が鋳銭司に関係していることからもうかがえるかもしれません。

 市域には岡に「金ヤ」、丹南に「金ケ辻」という鋳造に関わる小字名が残っています。また、天美西7丁目の大和川今池遺跡で和同開珎が中国銭と同時に出土しています。美原では、太井遺跡から奈良時代の鋳造工房が和同開珎とともに検出されました。

 栄原永遠男さん(大阪市大教授)によれば、河内鋳銭司は、のち平城京内に鋳銭寮として移転し、神亀3年(726)まで存続していたと考えられています。

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