29 恵我と会賀荘の成立

更新日:2018年12月13日
田畑が広がる別所付近の画像

田畑が広がる別所付近
牧は牛馬を飼育する地であるが、のち耕地の開発が行われて荘園化した。

皇室領を誇示した恵我の人々

 市域東北部の別所・大堀・若林・小川・一津屋は、松原市が誕生した昭和30年まで、中河内郡恵我村の大字でした。大堀に恵我村役場がおかれていました。恵我の名は、現在も恵我小学校や恵我幼稚園に受けつがれています。羽曳野市域ですが、恵我之荘の住居表示や駅名があることも周知のことでしょう。

 恵我は、会賀・餌香・恵賀・衛我とも書かれ、餌香川や餌香市として『日本書紀』にも出てくる古くからの名称です。

 また、大和王権の仲哀天皇の墓を「恵我長野西陵」、応神天皇の墓を「恵我藻伏崗陵」、允恭天皇の墓を「恵我長野北陵」とよんでいます。これらの伝承陵は、それぞれ藤井寺・古市・土師ノ里駅付近に所在しています。

 こうしたことから、恵我の名は松原市東北部から藤井寺市や羽曳野市西部・北部までを含む広域地名とみることができるでしょう。

 このうち、市域恵我地区や羽曳野市恵我之荘地区は、平安時代には荘園の発達に伴い会賀荘あるいは会賀牧とよばれる後院領であったようです。近接して、同じ後院領の福地牧も存在しました。後院とは、天皇の譲位後の御座所のことで、皇室領でした。

 会賀荘の名が現れる最も古い史料は、京都の醍醐寺に残る文書で、長保6年(1004)3月1日の日付をもっています。そこには、9世紀前半に嵯峨天皇の後院であった冷泉院の所領として会賀荘が成立したことを記しています。

 『続日本後紀』にも、会賀荘の荘名は見えませんが、承和3年(836)2月、丹比郡の荒廃田13町を皇太后(嵯峨天皇の皇女で、淳和天皇の皇后の正子か)の後院領にしたと述べています。これは、会賀荘が嵯峨天皇の後院であったことから、嵯峨天皇の皇女にも受けつがれたのでしょう。

 会賀荘は代々、上皇や法皇に伝えられていきました。 しかし、12世紀初めの鳥羽上皇から美福門院(鳥羽天皇の皇后)を経て、後白河法皇に伝えられた建久3年(1192)2月に、後白河法皇は会賀荘をはじめとする後院領を後鳥羽天皇に譲りました。

 以後、鎌倉時代に入って、会賀荘は後院領から天皇家の皇室領となったのです。もっとも、醍醐寺文書に会賀荘に関する記述が見られるように、醍醐寺がいつごろからか、荘の一部を寺領としていました。

 会賀荘の住人は、河内牛を飼育して皇室に貢進していましたが、御牧の威光により各種の賦課を免除されました。こうしたことから、彼らはほかの荘園や公領の住人に対して優越感を持ち、皇室領の住人であることを誇りに感じていたようです。時には、権威をかさに横暴な振る舞いもみられました。

 会賀荘の有力農民のうちには鎌倉末期ごろから土豪化し、武士となるものもいました。河内大塚山古墳(西大塚・南恵我之荘)に城をかまえた丹下氏は、その典型であると考えられています。

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