27 布忍寺と十一面観音像

更新日:2018年12月13日
布忍寺十一面観音像の画像

布忍寺十一面観音像
府内の仏像の中でも、1級の作品として位置づけられている(大林寺安置)。

寺観の盛衰とともに歩んだ本尊か

 布忍神社前の西除川に架かる宮橋東詰に、布忍山大林寺(向井町、北新町1丁目)があります。 融通念仏宗で、河内西国第5霊場として信仰されています。
 本堂には、本尊の阿弥陀如来立像(南北朝時代)と並んで、等身大の十一面観音立像が厨子の中に祀られています。
 十一面観音像は桧の一木造りで、高さ170センチメートルを測ります。光背・台座や十一面の頭上面・両手先・両足先は後世の補修ですが、そのほかは当初のままです。平安時代後半、11世紀ごろの作とみてよいでしょう。
 同観音は、平安時代後半に向井に建てられていた布忍寺(「歴史ウォーク」26)の本尊でした。美術史家の光森正士さん(現奈良大学教授)は、「目鼻から口もとにかけての面貌の彫りは浅く、いたって穏やかな表情となっている。面奥の深い割りに頬の張りは少ない。…府内でも古像に属し、作柄も畿内作品としてしっかりしている。これが旧布忍寺の本尊であれば、かなり寺観の整った大寺と思われる」と述べています(松原市史編さん室『河内国布忍寺(永興寺)の調査研究』、昭和58年)。
 布忍寺の寺伝によれば、同寺は七堂伽藍を備えた大寺であったと伝えていますが、この本尊の大きさや作風の立派さから、ある程度そのことが立証されるかもしれません。
 鎌倉時代の文暦元年(1234)12月18日に、平家より「河内国布忍寺奉懸鐘」(東大寺鋳物師の草部信明作)が寄進されていますので、有力壇越の関わりも想定されます。
 布忍寺は、布忍神社西南すぐの北新町2丁目にありましたが、明治6年に廃寺となりました。現在、榎の古木が立っている畑地のあたりが寺跡です。
 松原市史編さん室は、昭和54年に寺跡の1部を試掘調査したところ、平安後期の軒丸瓦・軒平瓦や柱穴などが検出されました。このことから、平安後期に布忍寺が建立されると同時に、十一面観音も製作され、本尊として祀られたのでしょう。
 しかし、明治初年の廃仏毀釈に際し、十一面観音は持ち出されて、近くの大林寺に安置されたのでした。
 十一面観音は、もともとは漆箔像と思われますが、今では剥落し素地を露出しています。このため、光森さんは、「ある長い時期、風雨にさらされることがあったのではないか」と想像されています(前掲書)。
 布忍寺は、南北朝時代や戦国時代に兵火にかかり衰退した時期がありました。江戸時代の元禄3年(1690)に本堂(観音堂)が再建されるまで、堂塔は荒れはてていたのです。
 十一面観音が安置されていた布忍寺本堂は、廃寺後、明治20年に現柏原市法善寺の融通念仏宗の壺井寺本堂として移され、現存しています。また、布忍寺の名も塔頭であった高木(北新町3丁目)の東之坊が受け継ぎ、大林寺ともどもその歴史を伝えています。

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