24 「丹比郡の駅」の設置

更新日:2018年12月13日
丹比郡の駅推定地付近の画像

丹比郡の駅推定地付近
西除川にかかる布忍橋から長尾街道を東に望む。

松原は古くから交通の要

 7世紀後半の天智天皇のころから、飛鳥の朝廷は中央集権の政治を確立するため、中央と地方とを結ぶ交通の整備を行いました。

 このうち、都から諸国に至る主要な道路30里(約16キロメートル)ごとに駅を置き、一定数の馬を用意しました。駅は、馬の乗り継ぎステーションでしたので、「うまや」とよぶのです。現在の主要駅に当たるでしょう。

 駅の制度は、8世紀初頭の大宝令の制定でほぼ完備しました。駅は馬の乗り継ぎだけではなく、国や役所の命令をうけた貴族や役人らの宿泊施設としても使用されました。

 当時、市域には東西に大津道(長尾街道)と丹比道(竹内街道)が走り、南北には難波京の朱雀大路を南に延長した難波大道がつくられていました。

 『続日本後紀』の承和8年(841)閏9月条に「河内国丹比郡の駅家院の倉八宇・屋二宇を以て、遷して当郡日根野に建て、正倉と為す」とあります。

 この記事は、平安時代初頭のことを述べていますが、奈良時代には丹比郡に駅があったことがわかります。しかし、平安時代の承和8年に同駅を和泉国日根野(泉佐野市周辺)に移したと考えればよいでしょう。
奈良時代は平城京を中心とした交通網が重視されていましたが、8世紀末に都が平安京に移ったことから、奈良と結ばれていた丹比郡の駅が廃止されたと思われます。

 平安時代後期の延久4年(1072)9月4日付の太政官牒に、丹北郡に「北三条駅家里」の地名があることから、ここが丹比郡の駅と推定されます。同地は条里制の復元から、長尾街道に沿う東新町の向井地区、近鉄布忍駅あたりと考えられています。

 しかし、ここから西に1キロメートル余り行った北新町6丁目の清水地区に駅を想定させる小字名の「正殿」「馬取淵」があり、天美我堂にも「馬飯」があることから、駅は長尾街道が難波大道と交差する天美我堂あるいは北新町あたりとする見方もあります。

 最近、京都府大山崎町で8世紀末から9世紀前半ごろに建てられた山崎駅や、同駅を整備して造った嵯峨天皇の河陽離宮が発掘されました。駅の建物が立派な瓦葺きで、離宮にも受け継がれていたことから、奈良時代の『続日本紀』天平神護元年(765) 10月28日条に、称徳天皇が紀伊国へ行幸の際、丹比郡へも立ち寄ったとする記事があるので、これを丹比行宮とみなせば、駅と行宮との関わりを探るうえで参考になるでしょう。行宮は、美原町小寺にあったと伝承されています。

 現在の駅の語源は、このように古くからあるのです。いまでいえば、ターミナルの梅田や難波、阿倍野のにぎわいを想像すればよいでしょう。

 また、阪神高速や西名阪あるいは近畿自動車道といった重要道路が結びつく大堀の松原ジャンクションは、さしずめ古代駅の現代版でしょう。古くから、松原は交通の要であることがわかります。

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