立石と深居神社
立石は、いまでは「歯神さん」としてまつられている。
立石前には中世の一石五輪塔が2基おかれている。
後方の森の中には本殿が建つ。
東除川の水利と共に生きた人々
東除川の右岸に位置する小川の中でも、藤井寺市津堂との市境あたりは、まだまだ水田風景が見られます。それも、古代の方形の土地割である条里制の跡が整然と残っています。
小川2丁目の古池・西池・東池の総称である整形な三ツ池を見れば、そのことがわかるでしょう。三ツ池は、条里制の農地をのち3つの区画を持つため池としたものです。
三ツ池に西接する小川1丁目や北側の4・5丁目の地は、小川遺跡とよばれ、古墳時代から中世に至る集落遺跡です。また、三ツ池の東側の小川2・3丁目や藤井寺高校のあたりも津堂遺跡とよばれ、弥生時代から中世に続く遺構や遺物が見つかっています。
同時に、小川6丁目の松原ジャンクション南東の屋後遺跡から、5世紀後半の円筒埴輪が検出されており、近くの小川5丁目の深居神社本殿が建つマウントも古墳の墳丘を想定させるとともに、境内からも須恵器が見つかっています。こうしたことから、古墳時代における小川の有力者のお墓(古墳)は、集落の北西にのち建てられた深居神社付近にあった可能性があります。
この深居神社は、奈良時代の養老元年(717)の創建と伝え、品陀別命(応神天皇)を祀っています。棟札から、一間社流造りのこけら葺の本殿は、江戸前期の万治3年(1660)に建てられました。また、寛政5年(1793)をはじめとする多くの絵馬が拝殿天井に掲げられています。
もともと、同社は小川だけではなく、津堂や市域の若林・大堀・川辺(大阪市平野区)の総産土神でした。それが、元弘~建武期(1331~35)以降、現在のように小川一村の氏神となったのです。ですから、深居神社から分かれた若林神社・大堀八幡宮・津堂八幡宮・川辺八幡宮の祭神も品陀別命なのです。
ところで、小川の名は、人々が東除川の水利をコントロールして農耕に生かしていったことからつけられたのでしょう。
小川と一津屋とを結ぶ東除川に架かる一津屋橋のすぐ上流に「小川の戸関」とよぶ堰が設けられていました。ここで東除川の水量が調節されて三ツ池に貯えられ、小川をはじめ、下流の若林・大堀の水田に水をうるおすことができたのでした。今も、橋上からこの堰の跡を見ることができます。
小川に、古代から中世を通じて恵我地方の総産土神の深居神社が鎮座したのも、同地が東除川の水上として重要視されていたからと思われます。
社名が「深居」と称されるのも、「居」は「井」の転化であり、農耕に欠かせない井戸ー水の神として崇められたからでしょう
古代、井戸は信仰の対象となりました。小川4丁目の不退寺の南から平安時代の井戸跡がたくさん見つかっています。また、深居神社参道東側に自然石が祀られています。そこは、屋後池があった所で、池は昭和43年に埋められましたが、池畔に建つ井戸神との関わりから、この立石も水神として信仰されていたかもしれません。