35 豪族居館を掘る

更新日:2018年12月13日
やまとがわ今池遺跡の豪族居館現地説明会の画像

やまとがわ今池遺跡の豪族居館現地説明会
天美西8丁目の大和川左岸。
1998年2月22日撮影。

濠をめぐらせ防御を固めた屋敷地

 1998年2月22日、天美西8丁目の大和川左岸の堤防ぞいに400人以上もの考古学ファンが集まりました。人々の目は、河床にそそがれています。この日、大阪府文化財調査研究センターによる大和川今池遺跡の発掘調査の現地説明会が開かれたのです。

 同遺跡は、大和川今池下水処理場の地を中心に広がる、旧石器から近世にいたる大規模な集落遺跡です(「歴史ウォーク」15)。

 今回の調査は、大和川の洪水対策の河床工事にともない行われたものです。その結果、鎌倉時代後期から南北朝時代(13世紀後半~14世紀前半)につくられた2期にわたる豪族の居館と思われる屋敷地の溝跡が見つかりました(「大和川今池遺跡」現地説明会資料)。

 大和川は江戸時代中頃に今の流路に付け替えられているため、本来、同地は南から北へとのびる河内台地の端にあたっています。

 最初に居館が建てられた鎌倉後期、敷地は幅約3~4メートル、深さ0.4~0.5メートルを測る方形に巡る濠に囲まれていました。南北方向の溝は南側の中央部で途切れていますので、入り口は南側にあったと推定されます。
 敷地は40メートル×30メートルの範囲で、個々の建物の柱穴は確認されていませんが、大型建物が存在していたことは、大量の土で整地していることからも分かります。

 鎌倉末期から南北朝期になると、最初につくられた濠は埋められていましたが、その外側に新しく濠が掘られました。その濠は幅約4~5、敷地も55メートル×40メートルに拡大されています。

 南北朝の動乱の波にまきこまれ、軍事的緊張から、居館を整備・拡張する必要が生じたのでしょう。

 2箇所の濠からは土師器・瓦器などの土器にともなって大量の瓦が出土し、「寺」と書かれた墨書土器、硯、石鍋などが見つかっています。過去の調査で、同地南側で、平安時代末期ごろの瓦が大量に出土していますので、居館の南側に隣接して、寺院があったことが推定されます。「観音堂」という小字が残っており、この豪族に関わる仏堂であったかもしれません。

 府文化財調査研究センターによるその後の調査では、同遺構の東側の河床で、居館とほぼ同時期の水田耕作地が検出されました。

 現在も、これらに続く行基大橋下流の河床で発掘調査が行われています。やはり、居館に関わると思われる日常雑器の瓦器などとともに、土坑や井戸が見つかっています。

 市域には、南北朝時代、岡2丁目の松原城(剰我城)、丹南5丁目の丹南城、西大塚1丁目の丹下城、大堀1丁目の大堀城などの城館があったと伝えられています。

 天美の豪族居館の主も、南朝と北朝が河内一帯で戦う中、両軍の動きに敏感に対応したのでしょうか。史料は、そうした情勢について何も語ってくれません。

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