十二社権現堂と道標(いずれも新堂3丁目)
宮は旧社地を離れ、児童公園内に移されている。
道標も向きは変えられている。
古代にさかのぼる古道
空海は平安初期の弘仁2年(811)、紀州の高野山に金剛峰寺(こんごうぶじ)を建て、同地で入定しました。のち11から12世紀ごろから、空海を尊崇する人々は、高野詣をするようになりました。
京都の貴族たちが高野山に詣でるルートは何本かありました。ふつう、淀川を下って天王山麓の大山崎や大阪の天満橋、あるいは堺まで来て、陸路、霊山をめざしました。
大山崎からの道は東高野街道とよばれ、生駒山地西麓を経て河内長野方面に向かいます。旧国道170号線がそれにあたります。
一方、堺方面には三国丘の方違(ほうちがい)神社の南を通る西高野街道が走っていました。国道310号線はそれが発達したものです。
この東・西高野街道にはさまれるかのように、市域にも中高野街道と下高野街道とよばれる古道が通っています。
中高野街道は、北から南へ大和川に架かる高野大橋を渡って、三宅の屯倉神社前を過ぎ、阿保・上田・新堂・岡・丹南を結んでいます。近鉄河内松原駅前を南下するバス道は新道で、旧道は曲がりくねって、その西の松原幼稚園や松原小学校前を通っていました。
下高野街道は、大和川の下高野橋から阿麻美許曽(あまみこそ)神社前を過ぎ、天美小学校を左に見て、西除川に沿って布忍神社前を通り、河合の古池に至るルートです。やはり曲がっています。府道大阪狭山線がそれにあたります。
もともと、中・下高野街道は地形の影響をうけて、中位段丘上にできた集落と集落を結ぶ自然発生的な道としてスタートしたと思われます。これに対し、市域を東西に一直線に走る長尾街道や竹内街道(「歴史ウォーク」11)は国家計画によって作られたと考えられます。
近世以降、高野詣が盛んになるにつれて、同道は主要な道路となり、中・下高野街道とよばれるようになったのでしょう。
高見の里方面から、長尾街道と中高野街道をつなぐバイパスとなる住吉道が中高野街道と交差する新堂2丁目で6世紀後半ごろの橋が検出されました。
橋梁部材は、川底に幅40センチ、厚さ10センチの板材を二重に敷き、その上に直径40センチ、長さ5メートルの丸太を横に並べて橋脚替わりにしたものです。橋梁の幅は10メートルほどになり、歩行部分は厚さ15センチの板材を2枚重ねて強度を保っています。
こうした堅固な橋が川に架けられていたことから、同地には古道が古墳時代後半から存在していた可能性があります。
橋梁検出地の東、新堂3丁目の良念寺門前には、新堂の鎮守ですが高野詣や熊野詣の遥拝所もかねた十二社権現宮が祀られていました。戦国時代の永禄年間(1558~69)の創建と伝えています。今は廃寺ですが、真言宗の東之坊境内に本殿・門・木鳥居が作られ、同寺住持が管理していました。
また、街道沿いには天保5年(1834)造立の「かうや」道を示す道標も現存しており、歴史街道のなごりを今にとどめています。