「神形石」 宮司の妻屋氏は、江戸末期の文久2年(1862)壬戊9月に「神形石」の標柱を建立した。)
菅原道真ゆかりの貴重な文化財
三宅中4丁目に鎮座する屯倉神社は、天慶5年(942)に菅原道真を祭神として創祀されたと伝えています。(「歴史ウォーク」10)。
当地にはもともと、土師氏(のち菅原氏に改姓)の祖神である天穂日命を祀る穂日の社があり、同社は、のち依羅三宅天満宮ともよばれるようになりました。
本殿には神像として菅原道真像が安置されています。 総高 99.7センチメートル、総幅128.3センチメートル、膝張78センチメートルの等身大です。体部は近世の作ですが、挿首形式の頭部は南北朝時代の古様を示しています。
天神信仰の広がりにつれ、屯倉神社には道真に関わる伝承品が多く残されています。近世の近衛信尋自画賛の渡唐天神像、後陽成天皇の手になるという菅原道真画像、近衛基煕筆の「南無天満大自在天神」名号などは代表的なものです。
社務所のあたりは、神宮寺の梅松院があったところで、僧侶が神官を兼ねていました(明治初期に廃寺)。このため、神仏習合が見られ、たとえば神像の道真像の体内に元和8年(1622)に書かれた丹生講式や柿経の法華経八巻、および舎利二粒が納められていました。これらは道真への供養品だったのでしょう。
ところで、道明寺天満宮(藤井寺市)蔵の『道明尼律寺記』(享保11年)によると、道真が右大臣にのぼりつめたころ、叔母の覚寿尼が土師氏(菅原氏)の氏寺である道明寺の住持になっていました。延喜元年(901)、道真は左大臣の藤原時平の中傷によって大宰権帥に左遷されました。道真は京都から九州におもむく途中、道明寺に立ち寄り、覚寿尼に別れを告げたと伝えています。
同じく享保11年の屯倉神社蔵の『三宅天満宮梅松院縁起』にも、史実はさておき、道真は道明寺で叔母と別れたあと、三宅の穂日の社へ立ち寄り、石に座して祖神の天穂日命に無実の罪をはらすことを祈ったと記されています。
道真が座したと伝える石は「神形石」とよばれ、いまも拝殿前に石垣で囲まれて祀られています。 長さ180センチメートル、幅110センチメートル、高さ35センチメートルほどの扁平な石です。
わたしは、石造品に詳しい奥田尚さんに石材鑑定をお願いし、同石が鉢伏山(羽曳野市飛鳥・駒ヶ谷)で採れる石英安山岩であることを教えていただきました。鉢伏山には7世紀代の古墳が多く築かれていますが、鉢伏山南峰古墳や西峰古墳の横口式石槨のように、その墓室に当地の石英安山岩を利用しています。
三宅には全壊しましたが、土師ケ塚古墳や権現山古墳が築造されていましたので、古墳の石室の1部が神社に移された可能性も捨てきれません。「神形石」が土師ケ塚のものだという伝承も古くからあるほどです。
社務所の庭園には「土師墳」と刻んだ自然石も移されています。道真が学問や文芸の神様とあがめられるとともに、土師氏の遺跡も道真と結びついて尊崇されていったのです。