30 法源寺證西と大臣寺弁勝

更新日:2018年12月13日
「寺」の画像
「西城房」の画像
線刻された灯明台の画像

観音寺遺跡から出土した「寺」「西城房」と線刻された灯明台
(大阪府文化財調査研究センター提供)

清盛の厳島写経に努めた松原の僧

 平清盛が平氏一門の繁栄を祈って、尊崇する安芸・宮島(広島県)の厳島神社に平家納経や紺紙金泥の法華経八巻などを奉納したことはよく知られています。

 当時、平氏と厳島神社との結びつきをとりもったのが厳島神社神主の佐伯景弘でした。景弘は、御使として都の京都と厳島をしばしば往来していました。

 承安2年(1172)2月、清盛の3女徳子(のちの建礼門院)は、高倉天皇の皇后となる宣旨(天皇の命を伝える文書)を得ました。この前後のこととして、景弘は上京して京物の衣裳や扇などを厳島に献納しています。清盛もまた、法華経や大般若経などを厳島に奉納するため、写経に努めたのでした。

 とくに、清盛は大般若経の写経を自身のほか、他者にも依頼するよう景弘に命じたようです。これをうけて、景弘は以前から親交のあった丹南郡黒山(美原町)の長和寺住職の明蓮房良尊に協力を求めたのです。そこで、良尊は黒山近郊の寺院住職を誘って、大般若経の写経をすすめることにしました。

 この時、声がかかった中に丹北郡松原の法源寺住職の西城房證西と同じ松原の大臣寺住職の了恵房弁勝がいました。平安時代、松原荘とよばれていた現在の岡・新堂・上田付近に法源寺と大臣寺という古寺があったのです。
 證西と弁勝は、良尊と同じ黒山の学音寺・花林寺・薬師寺をはじめ、石川郡山城(河南町)の定福寺や安芸国一宮(厳島神社)の僧とともに、総勢10人で承安2年3月14日の夕方から18日の朝まで、写経に努めたのでした。

 写経の仕上量は126部におよびましたが、このうち證西は11部、弁勝は写経僧最高の16部を完成させました。出来上がった写経は、清盛の紺紙金泥の法華経とともに、厳島神社に奉納されたのです。

 法源寺や大臣寺が建っていた場所は、特定できませんが、法源寺は松原荘と交錯する柴垣2丁目や立部全域に広がる縄文から近世にいたる観音寺遺跡の地が候補とされています。

 立部2丁目の中央環状線沿いの地点から、15世紀前後に下りますが、寺の遺物と思われる多量の瓦や土器が検出されています。その中に、「寺」や「西城房」の文字が刻まれた灯明台がありました。

 平安末期の厳島写経の奉納から200年以上を経ていますが、これは法源寺の中にあった西城房という部屋に備えつけられていた灯明台と考えてよいでしょう。

 證西の居住した西城房が室町時代まで存続していたのです。寺院遺構は検出されていませんが、遺物の出土状況から、法源寺は平安時代に創建され、15世紀前後に廃絶したようです。

 大臣寺については、今のところ寺院遺構や遺物は検出されていません。「大臣」の寺名から、松原荘を管理していた有力者が建立した可能性があるかもしれません。

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