42 安明寺の創建

更新日:2018年12月13日
安明寺の画像

安明寺(天美北5丁目)
長谷山安明寺は河内西国霊場の客番となっている。
左は真宗大谷派最勝寺の本堂。

城連寺の村名となった南朝和田氏の菩提寺

 大和川南岸に沿って細長く城連寺の集落が形成されています。いまでは、天美北という住居表示に変わっていますが、この城連寺の地名は、14世紀後半の南北朝内乱期につけられたといわれています。

 後醍醐天皇の南朝に属していた楠木氏の一族であった和田孫三郎正綱は、当時、富田荘とよばれていた天美の地に邸をかまえていました。  元中元年(1384)、その和田氏の家臣であった城連寺左衛門安明も富田荘に陣屋を置くようになりました。

現在、城連寺集落の南方にあたる阪南大学の北側に「城堀」の小字名が見られますので、このあたりに陣屋があったかもしれません。そして、安明は翌元中2年に出家し、主君の和田氏の守本尊である聖観音を本尊として菩提寺の安明寺を建立したのです。

 これ以後、富田荘は城連寺安明の姓をとって、城連寺と村名を変えたと伝えられています。

 創建当初、安明寺はいまの大和川西青少年運動広場あたりにありました。江戸時代に入って、元和元年(1615)の大坂夏の陣で本尊の聖観音が破壊されるという被害にあっています。のち、元和7年(1621)に紀州の仏師によって、もとの姿に修復され、その胎内にくだけた破片を納めたといいます。

 さらに、宝永元年(1704)に大和川が現在の流路に付け替えられたため、安明寺の境内はその川床となりました。このため、いまの近鉄電車の西側、下高野橋の南側に代替地を与えられました。再建は困難をきわめましたが、宝永8年(1711)に近くの阿麻美許曽神社の神宮寺僧の春良が堂宇を完成させました。

 しかし、享保元年(1716)の大水害や明和元年(1764)の火災などにより、その後、無住状態になったことから、嘉永年間(1848~53)、城連寺村の檀家寺である最勝寺境内に小堂を設けて移転したのです。

 明治時代以後は、和田氏の子孫で安明寺を守護してきた同地の長谷川家の私寺として、いまも祀られています。

 現在、最勝寺山門の北側に並んで、楠木・和田氏の菊水の紋を刻んだ蟇股を持つ門が建ち、参道ごしに宝形造の本堂や長谷川家の墓地がみられます。本堂内には、後醍醐天皇や楠木正成などの位牌も安置されています。

 南北朝の内乱期、城連寺氏が主君の和田氏の冥福を祀るため、安明寺を建てたことは、「もののふ」の忠義を如実にあらわしたものといえるでしょう。

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