43 大和川今池遺跡の屋敷地跡

更新日:2018年12月13日
行基大橋河川敷の発掘の様子

行基大橋河川敷の発掘
縄文時代の石器や古墳時代の埴輪も見つかった。
2000年8月2日撮影。

古代から中世の集落や土地利用の変化を探る

7月22日の昼下がり、大和川に架かる行基大橋南詰の土堤に多くの考古学ファンが集まってきました。大阪府文化財調査研究センターが開催した大和川今池遺跡の現地説明会を見学するためです。

同センターは、建設省による大和川左岸の高水敷整備事業に先立つ発掘調査を平成8年度から行っています。天美西地区を中心にこれまでの調査で、古墳時代の竪穴住居跡や飛鳥時代の難波大道と仮称される道路遺構、平安時代の掘立柱建物跡や観音堂廃寺とよばれる寺院推定地、鎌倉時代末期と南北朝時代の2期にわたる豪族居館跡をとりまく濠(「歴史ウォーク」35)などが見つかっています。

今回(平成11・12年度)の行基大橋下流の河床調査でも、平安時代の河川跡、平安時代前期のわだち跡や人・牛の足跡、鎌倉時代末期から室町時代にかけての堀割り状の溝で区画された屋敷地が検出されました(「現地説明会資料」)。

  河川跡に沿う地から見つかった8~9世紀のわだち跡は車軸の幅が約1・2メートル、わだちの幅は約10センチを測ります。わだちの間には、人や牛の足跡が連なっていました。人を乗せた牛車か荷物を牛に引かせた荷車が往来していたのでしょう。

このわだち跡の方向は、古代の条里地割りと一致していませんでしたので、当時、同地では整然とした方形の土地区画である条里地割りは施行されていなかったようです。

河川跡からは、多くの須恵器や土師器とともに「野取」と読める墨書土器も出土しており、近くの野遠(堺市)の地名とかかわりがあると推定されています。

一方、中世の溝ですが、これは「コ」の字状に見つかりました。溝の幅は1~4メートル、深さは20~70センチを測り、南側に向かって幅が広くなり、また、深くなっています。

 建物の跡は見つかりませんでしたが、居住者が利用した井戸や使用した多量の瓦、陶磁器・青白磁、瓦器などが出土しました。 13世紀後半ごろ、この地の有力者の屋敷があり、屋敷地の周りに溝を巡らせていることから、防御する必要があったのでしょう。

屋敷地は15世紀後半に廃絶しましたが、特に注目される点はこの溝が条里地割りに沿っていたことです。平安前期には見られなかった方区画が、この時期には存在していたのです。

 こうしたことから、わだち跡や溝で区画された屋敷地跡は、古代から中世にかけての天美北西部の集落や土地利用の変化をうかがわせる貴重な発掘となったのでした。

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