40 丹南・守護所の設置

更新日:2018年12月13日
丹南・守護所推定地付近

丹南・守護所推定地付近(丹南5丁目)
守護所推定地のひとつの字「段」に祀られている「牛滝さん」塚

楠木正成が攻めた鎌倉幕府・守護の館

 12世紀後半、鎌倉幕府の成立とともに、国ごとに設置された守護は、地方行政の中心として軍事や警察権をゆだねられていました。

 13世紀後半から14世紀前半にかけて、河内の守護には北条氏一門が任命されました。この守護がいた館、すなわち役所は守護所とよばれています。そこには、守護代が常駐していました。鎌倉時代を通じてではありませんが、鎌倉末期ごろ、河内の守護所が市域最南端の丹南に置かれていたことはあまり知られていません。

 元弘元年(1331)から同3年(1333)、後醍醐天皇は天皇政治の復活を企て、南河内の土豪武士であった楠木正成らを味方につけ、鎌倉幕府軍と戦いました。

 正成は、金剛山の赤坂城や千早城(いずれも千早赤坂村)に拠って、幕府の大軍をさんざんにうち破りました。

 この時、丹南に幕府の守護所があったことから、丹南は幕府軍の兵站基地となり、駐屯地ともなったと思われます。

 『楠木合戦注文』によると、元弘3年1月14日、正成は丹南の守護所を攻めて、 守護代をはじめ地元の土豪武士である丹下氏や池尻氏などを追い落としました。このため、丹南一帯の農民たちは田畠屋敷を荒らされたことでしょう。

 まもなく、幕府は滅び、後醍醐天皇の建武の新政が始まりました。正成はその論功行賞によって、建武元年(1334)8月、河内や摂津の守護に任ぜられたのです。

 以後、市域は河内守となった正成に支配されるようになりました。もっとも、正成は2年後の建武3年(1336)に戦死しますので、その期間はわずか2年にすぎませんでした。

 ところで、丹南の守護所の場所ですが、地名の推察から丹南 5丁目の中高野街道付近の「矢倉畠」「木戸口」「城ノ堀」「段」という小字名が残っている地が想定されます。そこは、今池をはさんだ地域で、市域の最高所に位置します。同時に、飛鳥時代から近世までの複合遺跡である丹南遺跡の最南端にあたります。

 正成は戦前、忠臣「楠公」として英雄視されました。いまでも、正成の地元ともいうべき地にある富田林高校の校章は、楠木氏の旗印の「菊水」をあしらい、同高同窓会紙も「菊水郷」と名づけられ、その伝統が生きています。

 市域は、幕府の守護所ののち、正成の支配となったことから、公武の対立をその土地に刻んでいるといえます。

カテゴリー

お問い合わせ

松原市 市長公室 観光・シティプロモーション課

〒580-8501大阪府松原市阿保1丁目1番1号

電話:
072-334-1550(代表)