39 土師里と河内画師

更新日:2018年12月13日
反正山」と刻まれた石灯籠の画像

「反正山」と刻まれた石灯籠
熱田神社(別所6丁目)
 天保3年、柴籬神社(上田7丁目)に奉納された。

東大寺大仏殿の彩色に携わった人びと

 土師ノ里(はじのさと)は、藤井寺市の近鉄線の駅名としてよく知られています。

土師の地名は、古代当地が河内国志紀郡土師郷に属しており、土師氏が居住して、氏寺の土師寺(現在の道明寺)や氏神の天穂日命神社(現在の道明寺天満宮)を祀ったことに由来します。

 ところで、土師の地名は藤井寺だけではなく、松原にもあった可能性があります。10世紀前半につくられた『倭名抄(わみょうしょう)』には、奈良時代の行政区画として市域が属する丹比郡に土師里(郷)が所在したことを記しています。

 丹比郡土師里がどこにあたるのか、はっきりしませんが、地名の推察から堺市金岡・引野あたりか、あるいは本市の立部や上田付近かとも考えられています。ここでは、断定はできませんが、なぜ立部や上田にも想定されるのでしょうか。

 松原説の大きな根拠は2つあります。1つは、立部は伝承によれば、古墳時代、同地で土器を焼き、これを反正天皇に献上したので、土師村とよんだといわれているからです。江戸時代中期の地誌である『河内志』には「土わん、立部村造」とあります。今も、立部に「土師」さんの姓が多いことも興味深いことです。

 一方、現在の上田5丁目のあたりは字「反正山」の地であり、「はじやま」とも「はんしょうやま」ともよばれています。

当地は、反正天皇の丹比柴籬宮(「歴史ウォーク」7)がおかれたと伝えられる上田7丁目の柴籬神社の西方にあたります。 天皇ゆかりの地ということで、「反正」の字をあてたのでしょう。しかし、江戸時代の絵図や史料には「土師山」と書かれているものもあり、同字から「はじやま」とよばれたのかもしれません。

 この丹比郡土師里は、奈良時代に東大寺大仏殿の天井に彩色する仕事に携わった河内画師とよばれる画家集団のふるさととして有名です。

 天平勝宝9歳(757)4月の正倉院文書には、河内画師次万呂の家族が丹比郡土師里に居住していたと記しています。 次万呂は画師司長上という老練な技術系の職位にあり、正七位下を授けられた官人でした。次万呂の家族として、 河内画師鯨と河内画師広川の名前もみられます。

 聖武天皇が行った国家鎮護の大事業である大仏開眼供養のため、画技に秀れた丹比郡土師里の河内画師が、今でいう建設大臣の造東大寺司から仕事を任されたのです。

 河内画師は、中国や朝鮮半島から来た渡来系氏族ですが、彼らは市域かその西隣りに住み、国家に仕えたのでした。

 柴籬神社参道を本殿に進むと、社務所の前に石灯籠が2基、向かい合って建てられています。いずれも表に「柴籬宮」、 裏に「燈油料田地寄付」、西面に「天保三星舎、壬辰正月吉日」、東面に「上田村、反正山氏子中」とあります。

 江戸時代末期の天保3年(1832)に反正山の氏子が氏神に奉納したもので、反正山の地名を残す貴重な金石文です。

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