57 手束太郎源光盛の供養塔

更新日:2018年12月13日
源光盛の墓の画像

源光盛の墓
正面台石に「累氏墳墓」とあるように、建碑された嘉永2年までの手束氏の先祖を祀ったものである。

『平家物語』の篠原合戦で活躍した源氏の武者

近鉄電車が河内天美駅を出て、大和川へ向かう途中、左側線路沿いに城連寺・池内墓地(天美北7丁目)がみえます。 墓地中央に迎え地蔵堂がありますが、その手前に「十世孫手束太郎源光盛」と刻んだ墓石が祀られています。南面に「羽富喜右衛門重清」、北面に「十八世孫手束寿仙範光」、裏面には江戸時代末期の嘉永2年(1849)秋に、池内村(現天美東)の手束文治郎らが建立したことを記しています。

この墓碑に関連して、河内天美駅すぐの線路沿いに浄土真宗本願寺派の吉井山 敬恩寺(天美東8丁目)がありますが、同寺に「手束氏系図」が蔵されています。江戸時代の元和4年(1618)に書かれたものを、文治郎が嘉永2年に手を加えたものです。

同系図は、手束氏の先祖を平安時代初期の9世紀初めごろ、河内国丹北郡善正寺村に住んでいた羽富喜右衛門重清としています。善正寺村はいまの天美の地ですが、やがて我堂村、砂村(芝村)、油上村、城連寺村、池内村に分割されました。

系図を追うと、重清から360年ほど経た平安時代末期に、羽富治左衛門重朝が記されています。重朝は木曽(長野県)の源義仲方の武者とありますが、病いのため池内村で養生していました。続いて、重朝のあとを手束太郎源光盛が継ぐように作られています。

手束太郎は、軍記物の『平家物語』に手塚太郎と出てくる人物です。諏訪(長野県)の神官金刺氏の出身で、源義仲に従っていました。
『平家物語』によると、寿永2年(1183)、義仲は木曽から京都へ攻めこむため片山津温泉近くの篠原(石川県)で平氏と合戦をまじえました。源氏軍の優勢のなか、平氏軍の斎藤実盛は1人奮闘したものの、「信濃国の住人手塚太郎金刺光盛」と名のりをあげた太郎にその頸をきられたのでした。

しかし、翌年、太郎は義仲とともに近江の粟津(大津市)で討死することになります。

ところが、系図では太郎は死んだことにはなっていません。義仲の死後も、太郎は樋口次郎兼光に従って戦場におもむいています。その後、太郎は病気となったことから重朝を頼って池内村に身を寄せたと伝えています。そして、重朝に請われて羽富家の家督を継いで重清10世孫と称し、手束家が起こるのです。

このように、手束氏は江戸時代になって、源平の篠原合戦の勇者、源光盛を先祖の1人として系図に特筆するとともに、墓碑を建立して家の誇りとしたのでした。

同墓は後世建立の個人的なものとはいえ、源平の時代に思いをはせる供養塔として忘れてはならないものでしょう。

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