54 稚児ケ池に沈んだ幼子

更新日:2018年12月13日
稚児ケ池跡の画像

稚児ケ池跡
長尾街道をはさんで、左に寺池(上田2丁目)があり、右手に稚児ケ池(松ケ丘1丁目)があった。東方から写す。

稚児を弔う卒塔姿が池の中に建立された

河内松原駅の西側を通る中高野街道を北へ向かうと、すぐ東西を走る長尾街道にぶつかります。ここを右折して200メートルほど行くと、南側に寺池があり、その前はゴルフ練習場などになっていますが、もともとは稚児ケ池とよばれる大池がみられました。

稚児ケ池といういわくありげな名は、江戸時代前半の延宝7年(1679)に書かれた『河内鑑名所記』に「いつのころか、幼児がこの池にはまって亡くなったので、親は稚児を弔うために長さ5間(約9メートル)の卒塔姿を池の中に立てた」ためだと紹介しています。

のち棒状のこの卒塔姿が人々の心に焼きつき、棒池ともよばれるようになりました。後世の人々も卒塔姿が朽ちると立て直したようで『河内鑑名所記』の挿絵にも、池中に卒塔姿の立っているようすが描かれています。

一方、これとは別に稚児ケ池や棒池の名は、平安時代初期に阿保の地に居住していた阿保親王(平城天皇の第2皇子)伝説からつけられたともいわれています(「歴史ウォーク」23)。

伝承によると、阿保親王の子孫である在原信之が阿保に住んでいましたが早世しました。子の幸松麿は当時、13歳の稚児でしたが、母が重い眼病にかかりました。幸松麿は我が身を犠牲にしても、母の全快を祈って観音信仰の葛井寺(藤井寺市)に願を懸けました。満願の日に母の病いが治りましたので、幸松麿は観音に身を捧げるため、池に入水したのです。時に、平安時代後期の長和3年(1014)6月15日のことでした。

まもなく、人々は幸松麿の孝養を哀れみ、池の中に卒塔姿を立てたといいます。
同時に稚児ケ池や棒池とともに、幸松麿が阿保親王の子孫ということから、親王池という名も広まるようになりました。池は広大な阿保親王の邸宅の中に掘られた灌漑池だという伝えもあるほどです。
このように、稚児ケ池は江戸時代の地誌にもガイドされる河内の名所旧跡の一つでした。

そのうえ、いまでは埋めたてられたとはいえ、同池の場所は池の築造と古道の設置を考えるさいにも、注目すべき問題を提供しています。

つまり、長尾街道をはさんで南側にある寺池は形からみて、稚児ケ池とは同じ一つの池の可能性が高いでしょう。 長尾街道は、7世紀ごろにつくられた大津道という古道を引き継いだと考えられています。先に池があってその真ん中に古道がつくられたのか。あるいは、先に古道があったのか。この道を通るたび、わたしの興味はつきません。

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