55 小土墓地と向福寺・円正寺

更新日:2018年12月13日
阿弥陀廃寺から小土墓地をのぞむ画像

阿弥陀廃寺から小土墓地をのぞむ
手前の水田の地が発掘場所。
墓地中央の槙の木の後方。
宝形造建物が行基堂である。(羽曳野市教育委員会提供)

発掘でわかった幻の阿弥陀廃寺・聖屋敷

市域東南部の立部3丁目から市境をこえた羽曳野市南恵我之荘5墓地があります。本市の立部・西大塚と、羽曳野市の東大塚・今在家・西向野・東向野の旧6カ村の共同墓地です。

墓の正面に石造阿弥陀如来と「行基菩薩塔」と刻まれた自然石が並んで祀られています。このうち、行基塔の台石には江戸時代前半の貞享4年(1687)10月の年号とともに、東大塚村・西大塚村・立部村・松原村・野村・東向野村の村名が記されています。

ところで、この小土墓地に東接する旧東大塚村の小字阿弥陀堂・ヒジリ前・墓前の地を、羽曳野市教育委員会が平成5年と、10~11年に発掘しました。

調査を担当した河内一浩さんは、報告書の中で、この遺跡について「瓦葺きの小規模な建物が15世紀に築かれ、その近くに五輪塔が存在する墓が形成される」とし、「最盛期は17世紀後半から18世紀前半である」と書いています。遺構は、小字名をとって阿弥陀廃寺と名づけられました。

「ヒジリ前」の小字からも小土墓地を管理し、火葬に従事した僧侶の三昧聖が屋敷を構えていたとみるのが妥当でしょう。彼らが管理していた墓地の多くには、奈良時代の高僧である行基の供養塔が建てられました。

現在、同地は水田となっており、寺があったことさえ忘れられています。しかし、同寺の後身と想定される寺が、市域南部の岡5丁目に法灯を続けていたのです。それが円正寺です。

円正寺に残る延宝5年(1677)10月7日の「本尊録」によると、同寺は初め行基作の本尊を祀り、小土山向福寺とよばれて丹北郡大塚村に創建されていました。平安時代の桓武天皇や鎌倉時代の亀山天皇の勅願寺であったとも伝えています。

江戸時代前半、寛永年間の兵火で焼失しましたが、まもなく後西天皇の時、小堂を再建しました。その後、現在地の松原村岡に移転し、真宗大谷派に属して、小土山円正寺と号したといいます。
山号の小土山、創建地の大塚村から向福寺(円正寺)が阿弥陀廃寺に該当するでしょう。いまも円正寺本尊の阿弥陀如来像の横に、桓武・亀山・後西天皇の位牌が祀られています。

ただ、立部村の天保14年(1843)の明細帳には、立部村の墓(小土墓地)を管理する寺として、東大塚村に向土山小福寺があると記されていることから、阿弥陀廃寺の地には小福寺という寺も残っていたかもしれません。

文献でしか知ることができなかった向福寺や小福寺が、発掘調査によってその姿が明らかになりつつあるのです。

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