53 松原に生づく八上郡

更新日:2018年12月13日
昭和34年10月10日の河合神社の画像

昭和34年10月10日の河合神社
34年10月4日、河合神社遷宮式が行われた直後の秋祭りのようす。
金岡神社宮司により祭式が行われた。(河合3丁目、山本明氏提供)

金岡神社に合祀された河合の氏神河合神社

本市南部やその周辺には、丹南・丹上・丹下・多治井(丹比)などの町名がみられます。

これらの地名は、当地が8世紀初頭までに設けられていた丹比郡に含まれていたことに由来します。丹比郡は、やがて平安時代後期に丹北・丹南・八上の3郡に分割されました。 その後、明治29年になって丹北郡は中河内郡、丹南郡・八上郡は南河内郡に改編されます。その際、市域の大部分は丹北郡でしたので中河内郡になりましたが、丹南は丹南郡、河合は八上郡のため南河内郡に属しました。

このうち、市域の歴史のうえで、八上郡についてはあまり触れられないようです。これは、八上郡の大部分が現在の堺市北東部や美原町北西部にあたるからでしょう。旧の北八下村・南八下村・金岡村の地域です。河合は、北八下村の北東部を占めていました。

西除川左岸の河合は、弥生時代の石器が数多く出土したり、飛鳥時代から奈良時代の大溝や掘立柱建物が検出されるなど、古くから集落が形成されていました(「歴史ウォーク」14)。

歴史上では、豊臣秀吉が天正11年(1583)8月1日に福島正則に与えた知行の一所に「河州八上郡内河合郷」とみられるのが有名でしょう。天下人を目指した秀吉が統合した地域に施行した太閤検地の目録です。さらに、秀吉は文禄3年(1594)11月、長束正家を検地奉行として河内国で太閤検地を行いました。河合でもこの時の太閤検地帳が残っており、「八上郡内河合村御検地帳」とあります。

河合は昭和32年、松原市に合併されましたが、今も同地が旧八上郡と結びついているものに、氏神の河合神社の祭祀をあげることができます。

同社は、河合3丁目の鎮座地に江戸時代中期の元文5年(1740)8月16日、「牛頭天王宮」と刻まれた手洗石が残っているように、素盞鳴命を主神としています。 近代に入って、明治政府は神社合祀策を断行します。この結果、河合神社も他の旧八上郡内の神社と同じく、明治41年(1908)4月23日に金岡村(現堺市)の郷社であった金岡神社に合祀されることになりました。以後、河合は金岡神社の氏地となり、金岡神社の宮司が祭祀を行うようになったのです。

現在、社地には拝殿や鳥居が新築され、祭神も戻されています。また、10月の秋祭りには「だんじり」が町内を巡行します。地域住民の熱意の現れでしょう。今も河合神社は、金岡神社と関わりながら旧八上郡鎮座の産土神の伝統を受け継いでいるのです。

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