48 我堂八幡宮と神宮寺の本尊

更新日:2018年12月13日
我堂八幡宮神宮寺の阿弥陀如来像と像裏の銘文の画像

我堂八幡宮神宮寺の阿弥陀如来像と像裏の銘文

南北朝時代に造られた北朝年号銘の阿弥陀仏

天美我堂4丁目に厄除宮として有名な我堂八幡宮があります。江戸時代の延宝8年(1680)の「我堂村検地絵図」では社名がなく、鳥居マークだけですが、延享元年(1744)の「両我堂村明細帳」には「十五社明神」、享和2年(1802)の「東我堂村明細書上帳」にも「氏神十五社神」と記されています。

明治初年に八幡神社と称した後、大正2年(1913)に産土神社と改めましたが、いまでは我堂八幡宮の名で信仰されています。
堺市の百舌鳥八幡宮の分霊を勧請したもので、品陀別命が祭神です。境内には、江戸時代から昭和初期にかけて若者が力競べをした力石・八幡石・明治石・龍王石・金剛石が残っており、貴重な民俗資料といえるでしょう。

江戸時代まで、境内には黄蘗宗の神宮寺があり、社僧が奉仕していました。現在の八幡宮は昭和53年の再建ですが、それまで旧社務所には神宮寺の仏間が残されていました。神仏習合の信仰が息づいていたのです。

神宮寺は、明治初年の廃仏毀釈で廃寺となり、その仏像や什物は他所に移されました。このうち、本尊であった阿弥陀如来座像は近くの天美我堂7丁目の善正寺(「歴史ウォーク」47)に納められたのです。

善正寺の本尊は、鎌倉時代の阿弥陀如来立像です。その左側に、旧神宮寺本尊の阿弥陀如来座像が客仏として安置されています。像高は61.5センチで、作風は中国・宋風の影響をうけて重厚な感じがします。しかし、それ以上に同座像が注目されるのは、像裏に次のような墨書銘があるからです。

本尊 阿弥陀如来 神宮寺置之 永和三丁巳年 施主 成田誓玄居士

銘文から、成田氏が永和3年(1377)に神宮寺の本尊として、阿弥陀如来像を寄進したことがわかります。

『この「永和」は、南北朝動乱期の足利氏による北朝の年号です。室町幕府の3代将軍足利義満が京都・室町に「花の御所」を造営したのは、その前年の永和2年でした。

南朝ではなく、北朝年号を使っている理由の1つは、同じ市域に鎌倉末期、幕府の守護所が丹南に置かれるとともに、北朝の丹下氏が西大塚の河内大塚山古墳(丹下城)や岡(松原城)に城郭を築いて勢力をもっていたからでしょうか(「歴史ウォーク」41)。

なお、我堂という地名の由来はこの神宮寺に拠っているかもしれません。  

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