64 聖徳太子廟と丹南藩主

更新日:2018年12月13日
二天門からみた上の御堂の画像

二天門からみた上の御堂(太子町太子・叡福寺)
上の御堂は江戸時代に三十五歳堂、あるいは太子摂政像を42歳として四十二歳堂ともよばれた(左側)。右の森が聖徳太子廟。

高木氏は叡福寺二天門・上の御堂を建て、墓を造営

7世紀初頭に17条憲法を制定した聖徳太子は、日本の歴史上で最も有名な1人でしょう。太子は河内国石川郡の磯長(太子町)に葬られましたが、この太子の墓を守護追善するため、叡福寺が叔母の推古天皇によって創建されたと伝えています。

叡福寺南大門を入り、左手に金堂を見ながら、正面に進むと宮内庁が管理する太子廟が祀られています。太子の墓へは平安時代から、太子信仰の隆盛によって皇室をはじめ、貴族や高僧が巡拝するようになりました。

叡福寺は、天正2年(1574)の織田信長の兵火で焼失しますが、豊臣氏や徳川氏が再建に努力しました。江戸時代前半の貞享4年(1687)、5代将軍徳川綱吉は戦乱で221年も途絶えていた天皇即位時の大嘗祭を復活させるなど、将軍権力と朝廷権威を協調させようと企てました。幕府は、こうした体制の一環として翌元禄元年(1688)、太子廟の整備にとりかかったのです。

その時、任務を命じられたのが、6代丹南藩主高木正陳でした。正陳は太子廟の入り口である二天門と東西に連なる回廊・鐘楼堂、および聖徳太子摂政(35歳)像を祀る上の御堂を寄進したのでした。

正陳は工事にあたり、叡福寺が所在する石川郡が丹南藩の領地でなかったことから、丹南陣屋がおかれた本市の丹南など丹南郡の農民を多く動員したことでしょう。

こうした機縁から、正陳は弘法大師空海が築いたとされる結界石で囲まれた太子廟の背後に、初代藩主高木正次の五輪塔をはじめとして高木家墓所をつくることにしました。のちの藩主も代々「孝子」名で先代藩主の五輪塔を建て、それは明治2年に没した11代高木正明まで途切れることなく、続きました。いまも、内室を含む26基が歴代順に整然と1列に並んでいます。

高木氏はその後も太子廟の整備にかかわり、先の正明は天保3年(1832)12月、上の御堂を大修理しました。平成12年の解体修理で見つかった棟札に「干時天保三年臘月」「四十二歳堂」「大施主高木主水正」の文字がみられます。同じ棟札には、大工が現富田林市域の板持村・四郎兵衛と同じく新堂村・太右衛門であったことも記されています。

当時の藩財政は、困窮し借財を抱えていましたが、正明は丹南・丹北両郡の富豪などから借金をして事にあたったようです。

正明の五輪塔が菩提寺の来迎寺(丹南3丁目)に正次と並んで現存していますが、それだけ正明が丹南領民との結びつきを持っていたからでしょう。叡福寺太子廟で供養される歴代藩主の中でも、正明は正陳とともに太子への思慕が格別だったのではないでしょうか。

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