60 大阪の陣の戦場

更新日:2018年12月13日
丹南天満宮の画像

丹南天満宮
菅原道真を主神とする。本殿は夏の陣で焼けたが、室町末期・桃山時代の三間社流造りの様式を受け継いだ江戸時代初期に再建された。

焼失した松原・丹南・城連寺村の寺社や農家

慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで、徳川家康は政治の実権を握りました。このため、それまで天下人であった豊臣氏は摂津・河内・和泉65万石余の一大名になったのです。

しかし、豊臣秀吉を継いだ秀頼は朝廷や秀吉恩顧の大名・寺社の支援を受けていました。そこで、家康は豊臣氏の本拠である大阪城を2度も攻めたのです。それが慶長19年(1614)冬と元和元年(1615)夏の大阪の陣です。
河内では、冬の陣で徳川方の藤堂高虎は小山(藤井寺市)を焼き打ちし、さらに周辺の村々にも火を放ちました。

夏の陣では、家康軍は大和を経て河内から大阪へ進撃しようとしました。これを知って、豊臣方では後藤又兵衛や薄田兼相は、早暁朝霧をついて大阪城を出て道明寺(藤井寺市)に進出し、本市あたりまで戦場となりました。激戦が続きましたが、又兵衛は玉手山(柏原市)、兼相は誉田(羽曳野市)で戦死しました。

のち、元禄5年(1692)11月に大阪御番所へ提出した松原村の「寺社帳」に上田の広場山天神宮・観念寺と住吉大明神、新堂の十二所権現宮と東之坊、岡の泉福寺と弁財天や牛頭天王が「慶長年中ニ災焼」とあり、やがて「寛永年中ニ再興」とみられます。

広場山天神宮は上田7丁目の柴籬神社をいい、観念寺はその神宮寺でした。住吉社はもと上田1丁目の松原郵便局東側にあり、東之坊は新堂3丁目の良念寺東側にあった真言宗寺院。弁財天は岡1丁目の宮ノ池畔の出岡弁財天、牛頭天王は岡3丁目の松原南小学校前の正井殿のことです。泉福寺は岡5丁目、十二所権現宮は新堂3丁目の地でいまも信仰されています。

松原村の寺社の多くが大阪の陣で焼かれ、その後、寛永年間(1624~43)に再建されたことがわかります。

また、寛延2年(1749)7月や天明7年(1789)3月の「城連寺村明細帳」には、城連寺村(現天美北)が戦場となって田畑の作付けはもちろん、家も焼かれて住むこともできず、村人は他所へ避難したので、村の運営も支障をきたしたことを述べています。このため、元和2・3年には年貢が免除されました。南朝ゆかりの安明寺(「歴史ウォーク」42)の本尊である聖観音もこの時、破壊されました。

丹南村でも、丹南3丁目の来迎寺や丹南天満宮が戦乱で焼失しました。ちなみに、徳川方の高木正次(のち初代丹南藩主)が戦利品として、豊臣方の真田幸村の六文銭印の桶と杓を持ち帰っています。両品は丹南藩の設置とともに高木氏の菩提寺となった来迎寺にいまも所蔵されています。

大阪の陣で豊臣氏が滅ぶとともに、村々での戦乱も終わり、江戸時代が本格的に始まりました。

カテゴリー

お問い合わせ

松原市 市長公室 観光・シティプロモーション課

〒580-8501大阪府松原市阿保1丁目1番1号

電話:
072-334-1550(代表)