59 太閤検地が行われた村々

更新日:2018年12月13日
東田井村検地帳-1の画像
東田井村検地帳-2の画像

東田井村検地帳
表紙には「文禄3年11月日」「河州丹北郡布忍郷内東田井村御検地帳」とある。
東代(東新町)は古くは東田井と書いた(東新町5丁目、山田典生氏提供)。

豊臣秀吉は農民の土地を調べ、年貢を義務化

天正10年(1582)、豊臣秀吉は本能寺の変で織田信長を殺した明智光秀を山城(京都府)の山崎で討ちました。そして同年以降 、山城国を手初めに全国的な規模でいわゆる太閤検地を行います。

検地は、年貢を取り立てるもととなる田畑の持ち主や面積、収穫高を調べることで、それを記録したものが検地帳です。秀吉の家臣が直接実施し、長さや測りかたも日本中で統一されました。土地の生産力をすべて米の取れ高である石高であらわしました。

河内では、秀吉が大阪城を築いた天正11年夏ごろより検地が行われました。

一方、秀吉は直轄領とした蔵入地に代官をおいて支配させましたが、市域では布忍村と阿保村が知られています。「豊臣秀吉朱印状」には、天正14年(1586)8月17日に丹北郡布忍村千石の、また、文禄3年(1594)12月2日には阿保村808石9斗3升の代官に摂津平野郷(大阪市平野区)の豪商である末吉勘兵衛利方を任じたと記されています。

利方は廻船業にも従事し、子の孫左衛門吉安や孫の孫左衛門長方は江戸時代初期に東南アジア方面で朱印船貿易家として活躍しました。平野郷の産土神の杭全神社は末吉家の祖である坂上田村麻呂の子・広野麻呂が創建したものです。
 文禄3年、河内では再び検地が行われました。市域ではこの時の11月の日付のある検地帳が城連寺村・我堂村(現天美)、更池村・東田井[東代]村(現布忍)、河合村、岡村、三宅村、別所村の8カ村に残っています。いずれも検地奉行は、豊臣氏の5奉行の1人である長束正家でした。文禄検地帳が現存するものは少なく、本市にこれだけまとまってあることは貴重なことでしょう。

上田7丁目の郷土資料館に更池村文禄検地帳が展示されていますので、見学してください。

先に、利方が代官に任じられた布忍村は、布忍神社(向井村、現北新町2丁目)を産土神とする向井・清水・更池・東代・堀・高木 6カ村か、我堂村も文禄検地帳に「布忍郷之内」とありますので、計7カ村のうちのどれかでしょう。

ただ、清水村には秀吉の大阪城築城に際し、徴発されることになった石垣用の巨石を宝泉寺(南新町6丁目)の清水井戸に隠した伝承(「歴史ウォーク」51)があることから、清水村との関わりが強いのではないでしょうか。

布忍など市域の村々は大阪城から3里(12キロ)ほどの生産力の高い地域でした。豊臣政権の経済基盤を支える土地として、秀吉は農民の離村を禁じ、土地の面積を正しく測って正確に年貢を徴収したのです。

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