66 長尾氏が創建した本了寺

更新日:2018年12月13日
日慶墓の画像
日泰墓の画像

日慶墓(左)と日泰墓(右)
日慶墓は市域最大級の五輪塔である。
日泰墓正面には「当寺中興、堺妙国寺三十二世、正中山百六代、順妙院日泰聖人」とある。

日慶の巨大な五輪塔と隠居寺で没した日泰の墓

大和川の土堤を南へ下った若林1丁目に日蓮宗の本了寺があります。同寺は、江戸時代初期の天和6年(1620)、若林に館をかまえていた長尾氏の菩提寺として創建されました。

同氏は、越後(新潟県)の戦国大名として名をはせた長尾輝虎、のちの上杉謙信につながると伝えています。謙信の死後、養子の上杉景勝は豊臣秀吉に重用されたことから、その流れをくむ長尾氏が、いまの枚方市長尾や富田林市喜志などとともに本市の若林にも豊臣氏から土地を与えられたといわれています。

若林の初代長尾氏も輝虎とよばれ、生前から日蓮宗に深く帰依して、日存を家に招いて講義を受けたといいます。輝虎は元和3年(1617)に亡くなり、正行院了喜日慶とおくりなされました。

後を継いだ長尾三左衛門は、元和6年(1620)に日慶の菩提を弔うため、屋敷の1部をさいて寺を創建したのです。これが、本了寺のおこりで、開山に師僧の日存をあおぎました。日存は、大阪・谷町の本長寺なども創建し、摂津や河内での日蓮宗の流布に力を入れました。

朱色に塗られた山門を入り、右手に本堂を見て進むと正面に日慶の墓があります。五輪正面に「妙法蓮華経」、地輪には「正行院了基日慶」の戒名と没年の「元和三年」と銘記したものです。高さ約2メートル50センチを測り、市域に現存する五輪塔の中で最大級のものでしょう。元和期の有力な日蓮宗信者は、このような巨大な五輪塔を各地に建てています。

本了寺を創建した長尾三左衛門は、寛文12年(1672)に没しました。以後、長尾氏は日慶墓を中心として歴代の墓所をつくるとともに、本了寺の維持に努めたのでした。

大和川に沿う落掘川に架かる西橋北詰に「南無妙法蓮華経」「後五百歳中 廣宣流布」「五百御遠諱 天明元年辛丑年 十月十三日」「宗祖日蓮大菩薩」「本了寺」と4面に大きく記された立派な題目石が現存しています。これは、日蓮の500遠忌に建てられた石塔で、天明元年(1781)ごろの本了寺の広大な寺域を示しています。

本了寺は、 のち水害にあって一時、衰えますが、 幕末になって32代住職の日泰が同寺を中興しました。日泰はそれ以前、ソテツで有名な堺の妙国寺32代住職をつとめた後、日蓮宗最古の法華経弘通の名刹、法華経寺(千葉県市川市)の106代住職となった高僧でした。

日泰は晩年の隠居寺として本了寺を再興して元治2年(1865)2月、同寺で亡くなりました。享年65歳。歴代住職の墓石が建ち並ぶ一番手前に「弟子中」が建立した日泰の墓がみられます。こじんまりとした墓碑ですが、それがかえって、余生を静かな河内で過ごそうとした日泰の清廉さがあらわれているようです。

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