81 追分地蔵尊道標と伝承

更新日:2018年12月13日
追分地蔵尊道標の画像

追分地蔵尊道標(高見の里3丁目)
敬念寺門前の田中正夫氏の祖父・万造氏が明治時代、追分から敬念寺横に移したという。右が天和2年銘道標。

高見の里に祀られる現存最古級の天和2年銘道標

 江戸時代中ごろ以降、庶民が旅を楽しむようになって、各地の社寺参詣路は整備されていきました。同時に、旅人に道のりや方向を教えてくれる石造の 道標も17世紀後半の寛文年間ごろから見られるようになり、18世紀に入って数多く建立されました。現存最古級の紀年銘をもつ道標のうち、延宝6年 (1678)の京都・三条白川橋のものは有名です。

 市域には、東西に長尾街道や竹内街道、南北に高野街道が通っていますので、江戸時代の道標が14基ほど残っています。もっとも、道路の拡張などで取り壊されたりしているので、実際はこの数を上回るでしょう。今回は、市域で最古の道標を紹介します。

 堺から東進する長尾街道が、近鉄布忍駅南側の踏切を渡り、高見の里の学園通りから北進する道と交差する手前、東新町4丁目と高見の里2丁目の境界 で右(南東)に斜向する道と分かれます。ここは江戸時代、追分とよばれ、斜向道路は高見の里から新堂に入って、高野街道に通じるバイパスでした。
 追分には松林が茂り、茶屋が設けられていました。ここに、花崗岩で舟形地蔵を利用した道標がありました。正面中央に地蔵立像が浮彫りされ、その下部に二段で「天和二壬歳七月十日」、右縁に「右はせ よしの」、左縁に「左なら ふじいでら」と刻んでいます。右へ高野街道を行くと大和の長谷寺(桜井市)や吉野へ、左の長尾街道をそのまま進めば奈良や葛井寺(藤井寺市)へと導いてくれます。

 天和2年(1682)は、三条白川橋の道標に4年遅れるだけの貴重なものです。
 現在、追分地蔵尊道標は同地から南東へ線路を越えて300メートル離れた高見の里3丁目の敬念寺の門横に移されています。二体安置された地蔵尊のうち、右側のものですが、地蔵の真ん中が横一直線に割れています。

 なぜ割れたかというと、馬をお伴にした馬主が馬を追分の松林につないで茶屋で休憩していたところ、馬が急に暴れて地蔵を後足でけり倒したからだと伝えています。そのはずみで馬も瞬時に亡くなったのでした。
 仏罰に驚いた馬主は、地蔵の功徳を願い、馬の供養も兼ねて新たに同じ地蔵尊道標をつくって追分へ寄進したというのです。敬念寺門横のもう一つの左側の舟形地蔵尊道標がこれにあたります。天和2年道標と同じく、正面中央に地蔵立像を浮彫りし、右縁に「右はせ よしの」、左縁に「左ふじいでら なら」とあります。ただし、年号は刻まれていません。

 史実はともかく、こうした伝承が生まれた背景には、一村の一カ所に同じ形式の地蔵尊道標が二体祀られていたからでしょう。今では、ここで毎年8月23日、賑やかに高見の里の地蔵盆が行われています。

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