高見村惣井戸(高見の里3丁目)
施主の信田喜右衛門は高見墓地にも「安政4丁巳九月九日」「南無阿弥陀仏」「釈浄喜 施主信田氏三十三回忌為菩提建之」と刻した棺台を寄進している。
喜右衛門は安政6年(1859)に没し、高見墓地の入口左側に眠っている。「釈喜信」「信田氏」とある。
高見村の信田喜右衛門が清水の湧く井戸を掘る
今年は弘法大師空海が延暦23年(804)に中国・唐へ修行に渡って1200年になります。これを記念して、空海が開いた高野山真言宗総本山の金剛峰寺(和歌山県)は展覧会を開いたり、高野山をユネスコの世界遺産に登録するための運動を行ったりしています。
現在、多くの人々が空海ゆかりの四国八十八カ所を巡るなど、大師信仰は現代人の心をやすらげる原点となっているかもしれません。
この大師信仰から、各地には空海と結びついた数々の伝承が残っています。本市にも、高野街道が南北に通っていることもあり、空海の惣井戸伝説が伝えられているのです。
高見の里3丁目の高見神社の南、住宅地の一角に井戸が残されています。地表の井桁は整形された花崗岩で、凸状につくられた4枚を上下交互に組み合わせています。北面と東面に「天保8年9月 高見村惣井戸十三忌志 釈浄恵 施主信田喜右衛門」と刻まれています。江戸時代後期の天保8年(1837)、高見村の信田氏が村人の共同井戸としてつくったことがわかります。
地表下の井筒は、もともとは円形に瓦で囲っていましたが、いまではコンクリートで補修されています。地面も石敷で丁寧に覆われ、飲み水や炊事などの利用と共に、村人の寄りあいの空間でもあったでしょう。
もっとも、いつのころからか高見村の人々はこの井戸は天保年間に掘られたのではなく、遠く平安時代初期に空海がつくったと伝えるようになりました。
各地に足跡を残す空海が高見村にも来たというのです。この時、空海はのどがかわいたので何軒かの家に入り、飲み水を所望しました。しかし、家人たちは身なりの貧しい僧侶の姿を見て断りました。しかたなく、空海は畑の中にあった井戸を探しだしましたが、ひどい悪水でした。ところが、空海がその井戸水を飲むと甘露な清水に変わったといいます。これが伝説の惣井戸です。反対に、水を飲ませなかった農家の井戸は赤茶色のかなけ水になってしまいました。
また、別の伝承によると高見村は水の便が悪く、飲み水に困っていました。空海はこれを哀れみ、携えた錫杖で地面をついたところ、清水が湧き出したともいわれています。
弘法井・弘法清水説話は、空海伝承の中でもポピュラーなものです。荒唐無稽なものが多いのですが、空海の多彩な社会事業が裏づけとなって伝承化されたものでしょう。
惣井戸を寄進した信田喜右衛門の旧宅は、いまの高見の里3丁目の高見会館のところにありました。また、喜右衛門の墓は一族の墓石とともに、西除川沿いの高見墓地に祀られています。