88 松原の中の河内木綿

更新日:2018年12月13日
更池村庄屋の田中家住宅の画像

更池村庄屋の田中家住宅(南新町1丁目)
「更池村免定」や「更池村明細帳」を所蔵する。
同家主屋は宝永6年(1709)の築造。
表門は文政年間(1818~29)の建立である。

綿作栽培の初見は更池村「布忍八景」絵馬も紹介

 江戸時代を通じて、松原の村々をはじめとして河内地方では綿作が盛んに行われていました。綿から織られた木綿は吸湿性があり、丈夫で肌ざわりがよく、そのうえ安価でしたので、庶民の実用的な衣料として欠かせないものでした。

木綿は室町時代の15世紀ごろ、朝鮮半島から大量に輸入されました。やがて、三河国(愛知県)で綿が栽培されるようになり、これがわが国の綿作の始まりといわれています。

大坂周辺でも江戸時代初期に木綿作りが広がっており、大坂市中に木綿問屋があったり、綿市がみられました。寛永15年(1638)の『毛吹草』という全国各地の特産物を紹介した本には、この時期、八尾の久宝寺木綿が名産として有名であったと記しています。

松原市域では、寛永10年(1633)11月の「更池村免定」に初めて綿作の記事が登場します。布忍・南新町地域の更池村の年貢高を決めたその「酉年御物成之事」に稲作とならんで、「四ツ弐拾五石六斗弐升弐合木わた」とあります。木綿に対する税率が収穫の40%であることがわかります。市域でも、 江戸時代の早くから綿作が行われていたことは確かでしょう。

宝永元年(1704)、大和川が松原方面に付け替えられました。この結果、八尾や東大阪などの旧流路に出来た新田が砂地で綿作に向いていたこともあり、18世紀以後、河内木綿の名は広まっていきました。
宝永2年(1705)11月12日、更池村の人々も氏神とする布忍神社(北新町2丁目)に「布忍八景」と題する絵馬が奉納されました(「歴史ウォーク」 71)。このなかの四景目の「平田秋月」で布忍地域の綿作についての俳句がみられます。安知という人が「布忍野の綿の盛やけふの月」と詠んでいるのです。 秋のころ、布忍の畑一面に植えられた綿の実が月あかりに照らされている光景が目にうかびます。

同じ宝永2年の「更池村明細帳」には耕地の41%で綿を栽培していることが記されています。明和9年(1772)の「更池村明細帳」によりますと、 「八寸」「黄花」「赤花」の3品種が植えられています。天保14年(1843)になると「てうせん」「土佐」という2品種も加わりました。
更池村に限らず、市域の江戸時代の村々の明細帳には木綿作りの記録があり、とくに糸操りや木綿織りが農家の女性の重要な副業であったことがうかがえます。

しかし、近代に入って河内木綿は外国産の木綿におされて衰えていきました。それでも、その技術は松原の地場産業である金網作りに今も受け継がれているのです。

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