89 松川長右衛門と狭山池用水

更新日:2018年12月13日
松川長右衛門の碑の画像

松川長右衛門の碑(丹南4丁目)高さ2メートル、幅1メートル。
周囲にはツゲやヒイラギが植樹されている。
藤澤南岳は、大正8年5月にも熱田神社標石(別所6丁目)を書いた。

儒学者藤澤南岳が書いた丹南村庄屋長右衛門の碑

 中高野街道が府道中央環状線を南へ越えた丹南4丁目に「松川長右衛門碑 藤澤南岳書」と刻まれた自然石が建っています。現在、近鉄バスが通っている中高野街道は新道で、もともとはすぐ東を走る古道が本道でした。その旧中高野街道に面して、石碑が見られるのです。
 裏面には、「大字丹南大………十五日建立」とあります。年月が剥落していますが、丹南村が大正5年3月15日に建碑したことがわかっています。
 ここに顕彰された松川長右衛門は、名を武好といいます。丹南藩主高木氏の陣屋が置かれた丹南村の庄屋でしたが、郷士身分でもありました。住宅は陣屋表道に面し、陣屋に南接していました(「歴史ウォーク」61)。
 「松川家系図」(明治23年3月調べ)によりますと、松川氏は近江国(滋賀県)の戦国武将であった佐々木氏の一統で、神崎郡松川庄が本貫地でした。織田氏に仕えていた松川氏15代の義久が戦国時代末期に丹南に移ったと家伝にあります。
 長右衛門武好は24代で、江戸時代前半の承応3年(1654)6月に生まれました。庄屋として村政に関わっていた元禄7年(1694)のことです。丹比野に水を送る狭山池が改修されることになりました。このとき、長右衛門は狭山池水下用水掛りの、現在の松原・美原など40カ村の長となり、私財を投げ出して2年の歳月を費やし、池の改修に尽力したと伝えられています。
 以後、彼の功績によって丹南にはこれまでの狭山池からの通例の用水とは別に、長右衛門用水とよぶ課役が無いうえ12時間にも及ぶ長時間の用水を受ける権利が与えられたのです。このため、丹南は他村と比べて干害の被害が少なかったといわれています。
長右衛門は、元禄10年(1697)に亡くなりました。のち、丹南の人々は長右衛門の遺業に感謝し、その報恩を表すため、彼の命日である3月15日には休業し、来迎寺(丹南3丁目)にある松川家墓所にお参りしたのです。
 大正5年、彼の顕彰碑が建てられました。その際、そこに揮毫したのが大阪でも有名な儒学者であった藤澤南岳でした。
南岳は天保13年(1842)、讃岐(香川県)の生まれ。父の東畝のあとを継いで、大阪の淡路町(中央区)で泊園書院という儒学の私塾を主宰して、関西における教学に大きく寄与しました。南岳は大正9年に亡くなりましたが、大阪府内を中心に神社標石や石碑にその書を残しています。
同碑は、のち傷んだことから、町会や丹南水利組合が昭和59年3月15日に修復しました。同時に由来記も新設し、現在に至るまで長右衛門の命日には碑に参り、その徳を偲んでいるのです。

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