84 土橋弥五郎の新田開発

更新日:2018年12月13日
油上の町並みの画像

油上の町並み(天美西3丁目)
今も弥五郎の子孫の土橋氏をはじめ、土橋姓が油上には多い。
左の建物は浄土真宗の施福寺。

堺の南島や弥三次郎新田を開発した油上村の農民

 宝永元年(1704)10月、大和川が松原の北端を通って堺浦へ付替えられました。改流前、今の南海七道駅から西方の堺市三宝地区の南島町付近は塩浦・浅香浦・七道浜とよばれる海でした。しかし、大和川はこの河口で頻繁に出水し、これに伴う流土や流砂が堆積して洲を作るようになりました。
 そこで、何人かの事業家が築洲を埋めたてて、新しく田地を開墾する新田づくりを始めましたが成功しませんでした。やがて、享保13年(1728)4月から、河内国丹北郡油上村(天美西)の農民、土橋弥五郎が大坂の両替商であった加賀屋甚兵衛と共同で大和川をはさんで南と北で新田開発を行ったのです。

 土橋氏は、越前(福井県)大野市の亥山城(土橋城)を本拠とした大野郡司の朝倉景鏡を祖とします。景鏡が天正元年(1573)、土橋信鏡と名を改めた後、各地に移った一統のうち、油上村に居住した家系だと伝えています。

 さて、工事は風波に苦しめられて思うように進みませんでした。その間、弥五郎は元文2年(1737)9月、国土生成や海上安全の神である生国魂神・住吉神・水分神を開墾地に勧請しました。これが現在、南島町2丁に鎮座する月洲神社の創始です。同社に残る天保5年(1834)の棟札の写しに「摂州住吉郡大和川口附洲南嶋新田開発人河州丹北郡油上村百姓土橋弥五郎」とあります。

 着工から20数年たった宝暦元年(1751)11月、やっと南島新田ができました。同時に大和川をはさんだ北の北島新田も完成し、二十五町余の土地が誕生したのです。このうち、北島新田は加賀屋甚兵衛が得て加賀屋新田(大阪市住之江区)ともよばれました。一方、南島新田の十二町九畝六歩は弥五郎の所有となったのです。

 弥五郎は南島新田とは別に、その西側の築洲を延享3年(1746)から開発して、弥五郎の前名である弥三次郎の名をとった弥三次郎新田も完成させました。

 弥五郎は宝暦8年(1758)6月9日に亡くなりました。年齢はわかりませんが、その過去帳が天美我堂7丁目の善正寺(「歴史ウォーク」47)に残っています。現在、土橋氏の壇家寺は油上の施福寺(天美西3丁目)ですが、善正寺は江戸時代前半、当時砂村とよばれていた油上・芝地区にありましたので、土橋氏の記録も残っているのです。

 善正寺過去帳には「宝暦八年六月十日、釈玄信、油上五右衛門父」とあります。弥五郎の戒名は玄信であり、嫡子が五右衛門であることがわかります。過去帳には、弥五郎の妻が前年の宝暦7年6月に亡くなったことも記されています。
 弥五郎の死後、南島や弥三次郎新田は他人の手に渡りましたが、堺の新田史の中で松原出身の弥五郎の名を忘れることはできません。

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