82 大和川改流と若林遺跡

更新日:2018年12月13日
若林を流れる大和川の画像

若林を流れる大和川右岸から東をのぞむ。
右側(南)が松原市若林。左側(北)が八尾市若林。
八尾南遺跡は旧石器時代から鎌倉時代までの複合遺跡で、今回の調査地は堤の真下にあたる。

82.大和川改流と若林遺跡

 今年に入って、大和川右岸の八尾市若林町の八尾南遺跡から、川の氾濫でムラ人が避難した後に埋まった弥生時代後期(1世紀末)の集落跡が検出されました。東西150メートル、南北70メートルの範囲に竪穴住居7棟、掘立柱建物2棟のほか、3つの井戸や水田もありました。洪水で荒れた川跡からは、子どもの足跡も見つかっています。
 自然災害によって、弥生集落がパック状態で残っており、貴重な発掘調査となりました。1月24日、大阪府文化財センターは現地説明会を行いました。700人もの考古学ファンがつめかけ、弥生人の暮らしぶりに思いをはせたのです。
 弥生集落の上層面からは、古墳時代初めの方形周溝墓と呼ばれるお墓が三十基以上もみつかっており、同地がこの時期の大きな墓地であったこともわかっています。

 八尾南ムラは大和川の堤ぎわに位置していますが、ここは今から40年前までは松原市若林町でした。大和川左岸の本市若林町と同地域で、もともとは 中河内郡恵我村若林、江戸時代は丹北郡若林村だったのです。地下鉄谷町線の八尾南駅も若林町にあり、さかのぼれば松原市の北の玄関口になったかもしれません(「歴史ウォーク」2)。

 私は、弥生集落を見学してすぐ上の大和川の堤に立ちました。悠久の流れのように大和川の水面が光っており、対岸に市域若林町の若林神社の森や集落が見渡せました。

 現在、松原と八尾は大和川をはさんで境界となっています。しかし、大和川は江戸時代中ごろまでは、柏原から北流して八尾や東大阪を通って淀川に合流していました。流域は低地でしたので、大雨が降ると洪水がよくおこり、人々は大きな被害を受けました。
 このため、今米村(東大阪市)の中甚兵衛らは大和川の流れを堺の方へ変えるように江戸幕府に訴えました。松原市域など新流路にあたる村々は反対しましたが、宝永元年(1704)に柏原から藤井寺・松原・堺方面に流れる今の大和川がつけかえられたのです。

 若林村は、人工川の誕生によって民家が川床となって田畑もつぶされ、村域は北と南に分断されました。それでも若林の人々は恵我村・松原市の歴史の 中で結びつきを保っていましたが、北若林は近くに松原へ渡る橋が無かったことなどから、昭和39年に八尾への編入に踏み切ったのでした。

 大和川がつけかえられていなかったら、北若林は松原を離れることはなかったでしょう。ですから、先の遺跡名も八尾南ではなく、松原で使われている若林遺跡(市域若林でも縄文~中世の遺構・遺物が検出)とすることが望ましいのです。
 次回からは、人々の暮らしを一変させた新大和川の工事をとりあげます。

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