97 稱念寺と河合村門徒

更新日:2018年12月13日
稱念寺の画像

稱念寺(河合3丁目)
享保7年(1722)に建てられた本堂は、その後天保13年(1842)に改修され、昭和に入って2度修復された後、平成3年(1991)に新本堂が完成した。

17世紀に本尊が下され寺号を得た慈願寺の末寺

 口に仏の名号を称え、心に仏を念ずる称名念仏は、浄土真宗では南無阿弥陀仏と称えます。同時に、称名は信心を得て、悟りを約束されたことに対する感謝報恩であると解釈されています。
 こうしたことから、各地に称名寺とか称念寺と号する寺院が見られます。市域でも、近鉄高見の里駅から南下して、西除川を渡った河合3丁目に慈雲山稱念寺が建っています。
 稱念寺は、鎌倉時代の弘安6年(1283)、源満仲の家臣といわれる多田仲光の末裔の稲岡平右衛門が、河合に建立したと伝えています。もともとは真言宗でしたが、江戸時代前半、本願寺十四世琢如(1625~71)の時に浄土真宗に改宗し、以後、東本願寺を本山とする大谷派に属しています。
 同寺は、江戸時代を通じて八尾の慈願寺(「歴史ウォーク」94)の下寺となっていたことから、慈願寺に残る文書から近世の様子がうかがえます。慈願寺は、戦国時代以降、摂津・河内・大和に浄土真宗の教線を広げ、江戸時代には市域でも稱念寺以外に、良念寺(松原村新堂)、福応寺(松原村上田)、安養寺(阿保村)、不退寺(小川村)、妙心寺(大塚村)を末寺としていました。
 慈願寺文書によると、「八上郡河合村稱念寺」には、寛永7年(1630)8月26日、住職宗有の時、本尊の木佛である阿弥陀如来像が本山より下付されました。以後、貞享2年(1685)までの間に、太子七高僧と琢如上人画像が住職了玄の時、次いで親鸞聖人画像が住職宗甫の時に下され、今も本堂に祀られています。
 また、同じく宗甫時代の貞享2年9月15日、河合村の門徒たちは稱念寺という寺号をつけたいという願いを本山が許可したので(「寺号御免状」)、その志として「白銀四拾四刄」を納めています。
 河合村門徒の中には、慈願寺住職の任命にあたって影響力を持っていた有力者もいました。宝暦2年(1752)6月の「河州若江郡八尾慈願寺門徒惣代印形」には、河合村伊平治など各村90名の門徒惣代が後継住職選びに名を連ねていますが、伊平治はその筆頭惣代でした。
 今も、西除川沿いの河合墓地には、稱念寺墓石と並んで、宝暦年間前後の門徒たちの墓石が何基か残っています。この30数年後の寛政元年(1789)、河合村の檀家は16軒を数えました。
 他にも、享和2年(1802)1月には、稱念寺住職の次男である観了(13歳)が慈願寺の役所としての仕事を取り仕切っていた専徳寺の留守居になったという記録も残っています。
 このように、稱念寺は慈願寺と本末関係を持ちながら、門徒たちも檀家寺の維持・運営にあたったのでした。

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