93 今に残る河内の村相撲

更新日:2018年12月13日
「鈴鹿川彦兵衛」墓の画像

「鈴鹿川彦兵衛」墓(西野々墓地)
江戸時代の丹北郡西野々村以後、西野々町の墓石が並ぶ。
同墓の後方にも大正12年5月「門弟中」建立の「梅ヶ枝安次郎」の力士墓がある。

江戸期の「鈴鹿川」墓や河内十三組奉納の板番付

 府道中央環状線が高架となる大和高田-堺線の西大塚西交差点西南角に西野々墓地(上田6丁目)があります。その入口を入った中央左手に、正面には「釋教順」、基礎正面に「連中」、側面に「鈴鹿川彦兵衛」「天明八申天九月初五日」と書かれた河内相撲の力士の墓が見られます。
 昭和2年(1927)、大日本相撲協会(現・日本相撲協会)が生まれ、現在のような大相撲の制度や形式ができました。しかし、それ以前は江戸番付や大阪番付の玄人相撲とともに、各地では村相撲(素人相撲)が盛んに行われていました。
 河内でも、すでに17世紀末の元禄年間、大ヶ塚村(南河内郡河南町)の河内屋可正の旧記に相撲興行が催されていたことが記されています。
 河内では、安永5年(1776)と安永9年(1780)の銘のある力士の墓が最古級として現存しており、西野々墓地の「鈴鹿川」のしこ名を持つ天明8年(1788)の墓は3番目に古く、貴重なものでしょう。
 明治から昭和前半にかけて、松原をはじめとして、現在の大阪市平野区・柏原・藤井寺・美原・堺市北東部の村々では「河内十三組」とよぶ素人仲間の相撲組合が組織されていました。彼らは、大相撲のような部屋をつくり、親方や行司・呼び出しもそろえ、数100人分もの桟敷を設けて見物客を集め、毎年11月頃まで興行を行ったのです。
 西野々墓地と背中あわせにある上田墓地(上田6丁目)にも江戸時代後期の「鶴ヶ崎孫七」(再建)をはじめ、「早渡市右衛門」「桝形八三郎」「染川寅吉」「河内山巳之助」「鳴滝太三郎」「咲川」など明治年間の力士墓や同時期の行司である「木村八十吉」墓も見られます。
 その他、阿保・三宅・若林・大堀・田井城・城連寺池内・天美中央・新堂・河合の各墓地にも、江戸後期から明治・大正・昭和にわたる多くの村相撲の力士たちの墓が建っています。
 一方、布忍神社絵馬堂(北新町2丁目)には、相撲興行の宣伝を兼ねて板に書かれた板番付が奉納されています。大入りを願って上部に「入」の字形の屋根がついており、興味がそそられます。
 布忍では、おもに神社前を流れる西除川の河原に土俵を設けて興行されました。この板番付は「大正十三年五月三日於て中河内郡布忍村高木晴天一日大相撲興行続」と記され、東方・西方別に出身村名・力士名・行司名を番付ごとに一覧しています。地元の高木をはじめ、三宅や大塚など市域の村々の力士も多く書かれています(見学は事前に連絡が必要)。
 現在、松原出身の力士も大相撲で取り組んでいます。相撲が盛んだった河内十三組の土地柄、明日の関取をめざして頑張っているのです。

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