220 高木村の円成寺

更新日:2018年12月13日
円成寺の写真

円成寺(北新町5丁目)

円成寺本堂

阿弥陀如来像

堺の聞蔵寺を上寺とした浄土真宗本願寺派の惣道場

 布忍・北新町大池公園の西南側に、西本願寺を本山とする浄土真宗本願寺派の実性山円成寺(北新町五丁目)が建っています。江戸時代、この地は丹北郡高木村でした。宝暦九年(一七五九)六月の『河州丹北郡高木村明細帳』に、高木村には円成寺のほか、真言宗の東之坊(現布忍寺)と融通念仏宗の法伝寺(現在は廃寺)の三カ寺があると記しています。

 円成寺は、江戸時代、円城寺と表記されることもありましたが、今は円成寺で統一しています。同寺の創建年代や開基など詳しいことはわかりませんが、このたび、藤尾昭成住職や寺関係者のご好意で、本尊の阿弥陀如来像を調査させていただきました。

 すると、本堂中央の宮殿に祀られる阿弥陀如来像の左側側面に「聞蔵寺門徒河州丹北郡羽喰庄布忍高木村惣道場 圓城寺」と書かれていました。さらに、台座に差し込まれた本尊の足元のホゾ木を抜き出すと「河州高木村惣道場 圓成寺」とあり、その横には仏像作者の「康雲」の文字も見られました。

 作風からみて、江戸時代前半の阿弥陀如来像と考えられます。作者の康雲は姓は渡辺氏で、京都の岡崎(左京区)に住んだ西本願寺おかかえの仏師でした。各地の西本願寺の末寺の仏像を造っており、市域では松原村上田のうち、反正山村の善法寺(廃寺)の阿弥陀如来像にもその名が刻まれていました(「歴史ウォーク」127)。

 これらの銘文からわかったことは、
 (一)羽喰庄は三宅村や、池内村などの天美地域でも使われていますが、布忍の高木村も庄内であったことです。同じ布忍・東代村惣道場の浄信寺(真宗大谷派)の江戸時代前期の絵像裏書では「丹北郡布忍郷東代村」とあり、羽喰庄は使われず、布忍でも天美に隣接する地域あたりまでを範囲としていたと思われます。もっとも、中世、高木は高木庄の中でしたが、江戸時代に入って、羽喰庄に統轄されていったようです。
 (二)次に、円成寺は聞蔵寺の直末で、西本願寺を本山としますが、直接的には聞蔵寺が上寺であったことです。聞蔵寺は堺の神明町東(堺区)にあり、本願寺堺別院表門の前に建っています。旡碍山と号し、慶長十五年(一六一〇)、常春の聞基と伝えています。創建当初は浄照坊と称していました。同じ西本願寺末寺で、隣接する覚応寺の河野鉄南住職(与謝野晶子を与謝野鉄幹に紹介し、歌人としても有名)の弟が明治時代に聞蔵寺に入寺しています。

 寛政四年(一七九二)ごろにまとめられた西本願寺が所蔵する『河内国末寺帳』に「堺聞蔵寺下高木村 円成寺」と記しており、円成寺門徒が聞蔵寺を上寺として、本山などへ取り次ぎが行われたと思われます。

 さらに、本尊の阿弥陀如来像の横には、厨子が置かれています。そこには、「文化七庚午七月晦日 法名釋尼妙圓」「願主 大坂谷町四丁目裼屋町 河内屋九郎兵衛」とあり、続いて「文化七庚午八月 河州丹北郡 世話人圓城寺」と朱文字で書かれています。

 文化七年(一八一〇)七月、大坂の谷町四丁目(大阪市中央区)に住む河内屋九郎兵衛が、亡くなった妙圓という女性のために寄進した厨子で、翌八月、檀那寺と思われる円成寺がお世話したことを記しています。九郎兵衛は、河内屋の屋号から高木村出身で、大坂の谷町で商売をしていた方と想像できます。

 また、寺に残る『過去帳』は、幕末の弘化四年(一八四七)八月に「高木村 圓成寺 什物」としてまとめられました。その筆頭に寛永九年(一六三二)七月四日の檀家さんの法名が見られますので、江戸時代前半ごろには高木村の惣道場として、寺観が整っていったのでしょう。

 なお、弘化四年の十年前の天保八年(一八三七)、寺には諦秀という青年僧がおり、日田(大分県)の漢学者である広瀬旭荘が堺に設けた漢学塾の咸宜園の分塾に入門しています。

 現在の本堂は、昭和四十四年(一九六九)に再建されたものですが、廊下には宝暦六年(一七五六)五月につくられた摂州住吉郡(大阪市)の光林寺の喚鐘が移されています。

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