219 更池消防組の地域防災

更新日:2018年12月13日
昭和七年、更池消防組の陸軍特別大演習警備記念碑の写真

昭和七年、更池消防組の陸軍特別大演習警備記念碑(南新町二丁目、はーとビューグラウンド)

大正九年、更池消防組の半鐘の写真

大正九年、更池消防組の半鐘(松原市消防本部蔵)

称名寺横にある更池特設消火班の火の見やぐらの写真

称名寺横にある更池特設消火班の火の見やぐら(南新町二丁目)

昭和七年の陸軍特別大演習警備記念碑と大正九年半鐘

 昭和六年(一九三一)、中国・柳条湖事件をきっかけに満州事変が勃発し、翌七年(一九三二)には満州国建国や五・一五事件が起こり、日本は軍国主義化と戦時体制へと進んでいきました。

 昭和七年十一月十三日、河内平野一帯で陸軍特別大演習が行われることになり、その一か月前の十月一日に北河内郡守口町(現守口市)から移転新築されたばかりの北八下村河合の帝国女子薬学専門学校(現大阪薬科大学)に野外統監部が置かれることになりました。

 当初は、昭和天皇が新校舎へ行幸される予定でした。このため、学校では授業を休止し、学生の行動・服装・持物の心得が告示され、送迎役や接待役なども選抜されて、学校あげての準備が進められたのです。

 結局、天皇陛下は、お風邪を召されて行幸がかないませんでしたが、十三日、参謀総長の閑院宮載仁親王など皇族方や陸軍高官が野外統監部となった校舎で視察されました。校舎をはさんで西除川や近鉄高見ノ里駅方面の北軍と、河合集落南方の南軍に分かれて訓練が行われたのでした。

 この時、河合の西北隣りにあたる布忍村更池(現南新町)の消防組の人たちは、近辺の警備にあたりました。その記念碑が南新町二丁目のはーとビュー(人権交流センター)グラウンドに見られます。同所は、江戸時代以降、丹北郡更池村の灌漑池であった新池を昭和四十五年に埋めたものです。

 グラウンド北側、北堤であった場所に数基の石碑が立っています。中央の記念碑には、表面上部に「特別大演習警備記念 更池消防組」と二行に横書きされ、その下に発起人として、布忍村長の寺内憲治や更池区長の藤本藤一郎をはじめ、村会議員二名や顧問二名が記されています。

 続いて、消防組の組頭である石川関次郎を筆頭に小頭七名、消防手二十八名の名が三段にわたって刻まれています。下段には「當村 石匠石覺支店」とあり、布忍村清水(現南新町)の長尾街道沿いの石覚が石工にあたりました。支店とあるのは、石覚が明治以降、堺市堺区北花田口町に店があったからです。

 裏面を見ると、「昭和七年十一月十三日」と縦一列に刻まれ、陸軍特別大演習の日を記しています。石碑は、すぐ西の南新町ホール側の旧公園にありましたが、埋立後、ここへ移したものです。

 消防組とは、全国的な消防制度で、明治二十七年(一八九四)に組織化され、現在の民間人による消防団の前身にあたります。布忍村などの市域でも、大正元年(一九一二)七月一日から活動を始めました。

 更池では、防火・防災に積極的に取り組み、「自分たちのまちは自分たちで守る」という精神のもと、警備も含んだ安心・安全を目指したまちづくりを進めてきました。河合に野外統監部を置いた特別大演習でも、他地域に先駆け、自主的に地域防災体制の充実・強化を図ったのでした。

 浄土真宗本願寺派の称名寺(南新町二丁目)の横に、今は使われていませんが、火の見やぐらが設けられています。もともとは、木製だったようです。

 その高いやぐらに吊るされて、事あるごとに打たれた半鐘が、現在、松原市消防本部に保管されています。高さ約52センチメートル、直径約30センチメートルの青銅製の喚鐘です。龍頭や乳頭を設け、表面の池の間に「更池消防組」「大正九年十二月 仝村製」「寄附人 大阪府東成郡天王寺村字阿倍野一三九番地 黒田玉男」と刻んでいます。

 大正九年(一九二〇)十二月に更池消防組が使用する半鐘を阿倍野に住む黒田氏が寄付したものです。昭和七年の特別大演習の警備でも使われたかもしれません。

 更池では、現在も消防組や昭和十四年(一九三九)に改組された警防団の伝統を受け継ぐ消防団と共に、更池特設消火班も組織され、まちを守っています。

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