213 観念寺と上田観音堂

更新日:2018年12月13日

『河内名所図会』に描かれた柴籬神社(天満宮)と観念寺(観音)

柴籬神社絵馬堂に葺かれた「広場山」銘の軒丸瓦

もともとは、本殿に葺かれていた。

本尊の十一面観音像

旧観念寺蔵の仏像

中央:十一面観音像、右:不動明王像、左:弘法大師像

上田観音堂(上田7丁目)

写真はすべて保田紀元氏撮影

柴籬神社の神宮寺の観念寺 十一面観音像の祀る真言宗

 河内松原駅から南へ数百メートル、近鉄バス上田元町停留所を少し南へ行くと柴籬神社(上田七丁目)へ向かう斜めの道があります。そこを入ると、すぐ右側に小堂が見られます。上田観音堂と呼ばれており、十一面観音像を中心に、向かって右に不動明王像、左に弘法大師(空海)像を祀っています。上田の観音講の皆さんがお守りして、毎月十八日におつとめがされ、八月十日には大祭も行われています。

 これらの仏像は、もともとここにあったのではなく、明治初期まで柴籬神社境内に建てられていた真言宗の観念寺に祀られていました。江戸時代まで、神と仏は本質において同一とする神仏習合(神仏習合)の考えから、全国で神社とお寺が同じ境内に多く見られました。柴籬神社と観念寺もそうした例で、観念寺は神宮寺(宮寺)の性格を持っていました。

 元禄五年(一六九二)十一月の松原村の『寺社帳』に、当時、広場山天神宮と称していた柴籬神社の項に、広場山観念寺のことが次のように記されています。

(一)古儀真言宗に属し、大坂・生玉(いくたま)(現 天王寺区)の桜本坊の末寺で、当時の住職(史料では住持)は覚運。

(二)本堂は瓦葺きで、梁行(はりゆき)・桁行(けたゆき)はいずれも三間(さんげん)(約五・四メートル)四方の大きさ。
覚運が住む庫裏(くり)は藁葺きで、ひさしだけが瓦葺きとなり、梁行は三間、桁行は六間半(約十二メートル)でした。

(三)室町時代の永禄年間(一五五八~六九)に法印の秀盛(しゅうぜい)が開基しましたが、慶長年間に災焼しました。これは慶長二十年(一六一五)に豊臣方と徳川方が戦った大坂夏の陣で戦場となったからでしょう。のち、寛永年間(一六二四~四三)に二代住職の法印、覚夢道範(かくむどうはん)が再興したのです。

(四)代々の住職は秀盛・覚夢の弟子が嗣ぎ、以後、秀盛・覚慶(かくけい)・長祐(ちょうゆう)を経て、今の覚運に至りました。

 また、同年十月二六日の『河州丹北(かしゅうたんぼく)郡松原村寺社改之記(あらためのき)』(写し)によると、初代秀盛が慶長二十年五月五日に亡くなった後、覚夢が再建したものの、上寺(うわでら)の桜本坊に定住していたとあり、観念寺を兼務していたようです。覚夢は寛文四年(一六六四)十一月十一日に亡くなっています。さらに、延宝四年(一六七六)四月七日に亡くなった長祐も桜本坊に住んでいました。

 享和元年(一八〇一)に発刊された『河内名所図会(うえ)』に「柴籬宮旧跡」の挿絵が描かれています。現在の柴籬神社を俯瞰(ふかん)したものです。

 「天満宮」と書かれているところが本殿です。今の社務所の場所は「観音」とありますが、そこに観念寺が建っていました。瓦葺きの本堂と、それより大きい藁葺き(軒は瓦葺き)の庫裏が南北に並んで見られます。手前(南側)には、今も見られる鳥居と山門があり、社寺の習合をあらわしています。

 観念寺が観音と記されるのは、本尊が十一面観音像だからです。その観念寺が明治初期、神道の国教化政策に基づく仏教の抑圧などによる神仏分離によって廃寺となりました。

 江戸時代、上田の檀那寺は近くの願正寺や福應寺(東本願寺が本山、「歴史ウォーク」136・210)、あるいは善法寺(西本願寺が本山、「同」127)という浄土真宗寺院でした。しかし、人々は氏神の柴籬神社境内にあった観念寺が無くなることを惜しみ、本尊十一面観音像と並んで、真言宗を開いた弘法大師と真言密教で信仰される不動明王像を守ったのでした。

 観音堂は明治時代に建てられたと伝えられていますが、現存のお堂は昭和五十年(一九七五)に再建したものです。その後、観念寺創建時の室町時代のものといわれる十一面観音像なども、京都の修理所で彩色が施され、補修も行われました。

 観念寺の遺物としては、他にも柴籬神社絵馬堂の屋根に「広場山」の銘を刻んだ瓦があり、神仏習合時代のなごりを残しています。

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