210 上田村の福應寺

更新日:2018年12月13日

福應寺の換鐘

福應寺の阿弥陀如来像

「当知庵碑」表面

「当知庵碑」裏面

福應寺の旧地(上田7丁目)

(いずれも上田7丁目・願正寺預り)

慈願寺と歩んだ真宗大谷派 恵観と好楽社の「当知庵碑」

 新堂二丁目の松原小学校や中央公民館の東側にスーパーが見られますが、その東接する上田七丁目に記念碑と二基の墓石を守って区画が設けられています。

 もともと小学校や公民館が建っているところは、新堂の下(しも)の池が水をたたえていました。江戸時代以降、この東堤に接する上田村には、真宗大谷派の福應寺(ふくおうじ)が法灯を伝えていたのです。今では、境内の大半は駐車場となり、建物は無くなっていますが、福應寺の檀家さんたちは、近くの同じ真宗大谷派の願正寺(がんしょうじ)(上田七丁目、「歴史ウォーク」136)住職を代務者として、おつとめを続けています。

 福應寺旧地に残る石碑や墓石は、同寺住職たちの遺産なのです。記念碑の正面は「当知庵(とうちあん)碑」とあり、裏面には「大正元年十一月建設」「好楽社(こうらくしゃ)有志者」と刻まれています。その傍らの墓石は、江戸期のものと思われますが、二基とも剥落が激しく、年代ははっきりしません。「□(福)應寺墓」「釋尼(しゃくに)妙智」「釋恵了」や「了順」などの文字が判読できるのみです。

 さて、福應寺は江戸時代、東本願寺を本山としていましたが、東本願寺の直末(じきまつ)ではなく、八尾の慈願寺(じがんじ)の末寺でした(「歴史ウォーク」94・97・209)。このため、慈願寺には、福應寺に関わる資料が次のように残っています。

 まず、本尊の阿弥陀如来像は、東本願寺十三世の宣如(せんにょ)によって、寛永十六年(一六三九)夏に与えられました。「木佛尊僧 (ママ)河内国丹北(たんぼく)郡松原庄上田村惣道場福應寺」「但シ御印書ニ者慈願寺下と有之候(これありそうろう)」とあります。そして、その宣如を祀るため、十五世の常如(じょうにょ)によって、寛文(かんぶん)十三年(一六七三)三月二十五日、「宣如上人真影」が下されました。「慈願寺下河内国丹北郡松原庄上田村惣道場 福應寺常住物也」とみられます。続いて、十六世一如(いちにょ)(元禄十三年・一七〇〇年没)は、浄土真宗開祖の「親鸞聖人御影」と聖徳太子とインド・中国など七高祖の「太子高僧」像を下しました。

 元禄五年(一六九二)十一月の松原村の「寺社帳」によると、当時の住持(住職)は、了玄(りょうげん)で、境内は「東西拾間、南北拾三間五尺」とあります。本堂である道場と庫裏は藁葺(わらぶき)・瓦庇(ひさし)で、門は瓦葺でした。寛永年間(一六二四~四三)に法珎(ほうちん)が造立したとあり、以後、了雲・了嘉・了雲・了玄が住持として仕えました。

 現在、願正寺には、福應寺に祀られていた阿弥陀如来像と換鐘が移されています。このうち、換鐘(かんしょう)には「寛政四壬子(じんし)年二月造之 惣門徒中 河州丹北郡松原村 上田福應寺 子栄代世 常什物也」と刻まれています。寛政四年(一七九二)二月、子栄住職の時につくられたものです。

 同年は、元禄五年の「寺社帳」から、ちょうど一〇〇年後のことですが、子栄は、代々の住職が了の名を使っているので、子は了の誤記かもしれません。旧地に残る墓石にも、了順や恵了の法名があります。

 のち、幕末から明治時代になると、恵観(えかん)が四十年以上の長きにわたって住職を務めました。恵観は、八尾・北木の本の極楽寺(真宗大谷派)から入寺し、仏法を広めました。一方、俳句や冠句(宗匠(そうしょう)が出した句の上五句である冠に対し、中七字・下七字を付けて一句とするもの)にも堪能で、風流の人でもあったようです。

 とくに、恵観は三宅につくられた冠句結社の好楽社(「歴史ウォーク」135)に参加し、福應寺の一偶を当知庵と名付け、冠句サロンも催しました。恵観は明治四十四年(一九一一)、八十三歳で亡くなりましたが、好楽社の同人たちは、その恵観の遺徳を偲んで翌大正元年(一九一二)十一月、福應寺境内に「当知庵碑」を建立したのでした。

 それが、いちょうの木のもとにたたずむ現存する記念碑なのです。

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