207 本門法華宗の龍光寺(阿保)

更新日:2018年12月13日

龍光寺内陣

日蓮聖人像と「御題目」塔を中心とする。

本行寺新本堂(東新町3丁目)の写真

「本門法華宗 龍光寺」木札(阿保5丁目)

本山の妙蓮寺塔頭(たっちゅう)慈詮院(じせんいん)住職が書いた。

「松原市全図」

昭和31年-測図、3000分の1。

上が三宅方面。下が河内松原駅方面(市提供)。

河南・法華寺や茨木・本龍寺ゆかりの日蓮の教え、河内の講

 中高野街道が、府道堺ー大堀線と交わる阿保五丁目交差点のすぐ南東側に本門法華宗の龍光寺があります。上の地図は、松原市が発足した昭和三十年の一年後、三十一年に測図された三千分の一の地図です(市提供)。市制後、最初の「松原市全図」です。

 阿保の集落は、海泉池(かいずみいけ)の北側に広がっていますが、堺港大堀線と書かれた周囲は、一面の田畑であることがわかります。その「港」と記された下に「竜光寺」とあり、寺は田畑の中に建っています。今では住宅や商店・工場が立ち並び、寺そのものが住居を兼ねていますので、寺の木札がないとうっかり素通りしそうです。

 本門法華宗の本山である妙蓮寺(みょうれんじ)(京都市上京区)の寺誌などによると、龍光寺は、昭和十六年(一九四一)に阿保神社の東側、天理教会の東隣りで地元の長岡駒蔵が興したとあります。駒蔵は、明治三十五年(一九〇二)生まれでしたので、四十歳の時でした。

 阿保では、江戸時代以降、西徳寺(さいとくじ)と安養寺のいずれも東本願寺を本山とする真宗大谷派が信仰を受けていましたが、駒蔵は法華宗(日蓮宗)を開いた日蓮の「南無妙法蓮華経」に強くひかれていました。

 駒蔵は、昭和八年(一九三三)に創建されていた茨木市安威の本門法華宗の本龍寺の開基・庄司日経に師事して、河内に講をつくり、法華経の教えを広めていきました。戦後、この河内の講は、本龍寺の龍をいただき、龍光寺の寺号を得て、寺院に昇格しました。

 京都の本門法華宗本山である妙蓮寺は、鎌倉時代の永仁三年(一二九五)、日蓮・日朗の弟子となった日像が建立したものです。室町時代に入って、日像の流れを汲む日隆が本門法華宗の派祖とされ、応永二十二年(一四一五)、京都に本能寺を創建しました。

 応永二十五年、日隆は河内に出て、現寝屋川市美井元町に本厳寺(ほんごんじ)を建て、河内への教化も始まりました。さらに、永享十一年(一四三九)、日隆は南河内を訪れ、南北朝の戦跡を巡って、戦死者の供養も兼ねて、現河南町加納に法華寺を開基しました。今も法華寺が建つ北加納の人々は、本門法華宗の信徒であり、霊水が湧いた「日隆聖人筧霊蹟」の故地で、南河内の名刹として知られています。

 前206号で紹介した本行寺(東新町)の本門佛立宗は、この日隆を門祖とし、幕末・安政四年(一八五七)に本門佛立を開導した日扇(にっせん)は、もとはといえば本能寺で学んだ本門法華宗の僧侶でした。

 龍光寺は戦後、阿保の現在地に移りましたが、駒蔵はのち日永(にちえい)と名乗のり、昭和三十六年(一九六一)三月、六十歳で亡くなりました。阿保墓地の長岡家墓所に、「龍光院日永上人」として眠っています。

 そのため、龍光寺では、日永が学んだ本龍寺に河内の講を引き継いでもらうことを願い、日経亡き後、本龍寺第二世となった土畑信澄(つちはたしんちょう)(日経妻の弟)が兼務住職として、おつとめをされたのでした。

 加納・法華寺の庄司日験現住職は、もともとは本龍寺開基の日経のお子さんで、土畑住職とは義理のおじ、おいにあたります。本龍寺創建の一年前の昭和七年(一九三二)生まれの庄司住職は、法華寺を継がれる前、龍光寺へも来られ、河内の講の人々を導かれたのです。

 龍光寺は、法華寺や本龍寺をいわゆる親寺・兄弟寺として、現在、日永の五男である長岡信光住職が後を継いでおられます。日蓮聖人像や「南無妙法蓮華経」の御題目などを祀る内陣は、松原唯一の本門法華宗の寺として、七十有余年の歴史を伝えています。

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