205 丹南藩主高木氏出身の三笠宮妃

更新日:2018年12月13日

「舊丹南藩主高木主水正陣屋址」碑(表)

昭和12年8月 高木正得書

「舊丹南藩主高木主水正陣屋址」碑(裏)

旧藩士家の39人が見られる。

初代高木正次の五輪塔

手前の墓石は旧藩士の澤田家墓所

11代高木正明の五輪塔

いずれも来迎寺にて(丹南3丁目)

子爵高木正得と旧藩士家が丹南藩陣屋碑を来迎寺に建立

 宮内庁は五月二十七日、高円宮家の次女典子さまと、島根・出雲大社宮司を代々務める千家家の長男、国麿さんの婚約が内定したと発表しました。

 典子さまは、昭和天皇の弟、三笠宮殿下と百合子さまの三男である故高円宮憲仁親王の次女です。高円宮さまは四十七歳で亡くなられましたが、百合子さまは大正十二年(一九二三)生まれで、昭和十六年(一九四一)に三笠宮殿下と結婚されました。

 百合子さまは、旧姓高木氏で、子爵高木正得の次女です。正得は、市域丹南に置かれた丹南藩一万石の大名高木氏の出身でした。丹南藩主高木氏は、初代正次が元和九年(一六二三)、丹南に陣屋(居城)を構えて以来、十三代正善まで江戸時代を経て、明治四年(一八七一)七月の廃藩に至るまで、二五〇年にわたり丹南を中心に、河内の村々を支配したのでした(「歴史ウォーク」61~65)。

 正善は最後の丹南藩主でしたが、廃藩となった領地は丹南県を経て、堺県さらに大阪府に編入されていきました。旧藩主は華族に列せられ、正善が大正九年(一九二〇)十一月に亡くなったあと、家督を継いだのが明治二十七年(一八九四)一月生まれの長男、正得でした。正得は父、正善と同じく子爵に叙せられ、貴族院議員や司法参与官などを歴任する一方、昆虫学者としても知られています。

 当主となった正得は、さっそく大正十一年(一九二二)、正善や高木家先祖代々墓を菩提寺の栖岸院(東京都杉並区永福)に建てました。

 正得は、旧藩士たち各家との結びつきにも留意したようです。丹南三丁目の融通念仏宗・来迎寺は、藩政時代の高木家の菩提寺でした(「歴史ウォーク」34・187~189)。その来迎寺山門前に「舊丹南藩主高木主水正陣屋址」と書かれた立派な記念碑が建っています。

 表面中央の横に「子爵高木正得書」とあり、向かって右側の面には「昭和十二年八月建之」と刻んでいます。正得が、昭和十二年(一九三七)八月に、同地が旧丹南藩主高木氏代々の陣屋があったことを後世に残すため、旧藩士家の人々らと協力して、建てたのでした。主水正(もんどのしょう)は、代々の高木氏藩主が名乗った受領名です。

 石碑の裏面には、「舊藩建碑者氏名」として、順に井上・伊東・西嶋・所・小田・奥平・金谷・横井・高木(三氏)・高岡・高橋・鶴見・中田・山田・松本・正木(二氏)・丸島・藤井(二氏)・藤本・小林・安家・佐野(二氏)・澤田・木村・三浦・宮田・白藤(二氏)・関口・杉村(二氏)・菅氏の三十七名が四列にわたって刻まれ、下段に世話人として金谷・藤井の二氏、計三十九名の旧藩士らの子孫の名が見られます。台石には、石工が堺北新町(現堺市堺区)の中上氏であることも記しています。

 藩が無くなり、殿様と家臣という主従関係が見られなくなって七十年近くたっても、その絆は強いものがあったようです。その正得は、戦後間もなくの昭和二十三年(一九四八)、五十四歳で生涯をおえたのです。

 来迎寺墓地には、初代正次の五輪塔と十一代正明の五輪塔が祀られています。その正次墓をとり囲むように、藤井氏、安家氏、澤田氏、正木氏など家臣家の墓石も祀られています。

 平成二年(一九九〇)十月五日、百合子さまは丹南・来迎寺を参拝されました。当日、来迎寺の塩野泰通(しおのたいつう)前方丈(平成二十六年四月二十八日遷化)や丹南の人々らのお出迎えをうけられ、先祖の丹南藩主高木氏代々の位牌が祀られる本堂でおつとめをされ、正次墓や正明墓にお参りされたのです。

 三笠宮妃が、先祖ゆかりの地の一つとして来迎寺を訪れられたことは、松原の平成史の一ページを飾る一日であったといえるでしょう。

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