218 三宅の深淵池と太池

更新日:2018年12月13日
深淵池と「竣工之碑」の写真

深淵池と「竣工之碑」(三宅西1丁目) 南側に深淵池がひろがる。

三宅西地区圃場整備事業「竣工之碑」の写真

三宅西地区圃場整備事業「竣工之碑」(三宅西6丁目) 深淵池を元池として整備された。後ろが出長池。

太池堤の検見道の写真

太池堤の検見道 左側(南)が太池跡。北の田畑より一段と堤が高いことがわかる。右奥は松原第二中学校。

三宅の田畑を潤す元池と検見道として残る太池堤

 三宅西一丁目の国道三〇九号線西側に、が水をたたえています。夏の時期には水面いっぱいにハスが群生し、白やピンクの花を咲かせます。そのハス群に混って、オニバスも自生しています。オニバスは、直径二メートルにもおよぶ長大な華を持っています。八?十月の限られた時期だけ紫色の花をつけます。環境省が絶滅危惧種に指定している貴重なものです。
 三年(一八四六)以降に記された『』と称する郡三宅村の史料によると、深淵池は五年(一六〇〇)につくられたとあります。この年には(三宅東二丁目、「歴史ウォーク」90)もつくられたとあり、集落をはさんで東西三宅に二つの大池が掘られたのでした。
 『飛嘉恵』には、三宅村には他にも、、、、、、、の八つの池も記されています。いずれも「有之池二所」とあり、古くからあったようです。深淵池が大海池と並んで、掘削時が記録されているのは、両池が三宅村の灌漑池の元池として、特別な池だったからでしょう。
 十年(一七六〇)九月の『河内国丹北郡三宅村明細帳』に、深淵池は「長百間、横九拾五間四尺七寸」とあり、一八〇メートル前後の大きさです。大海池は「長百七拾四間」「横百六拾間」と最長約五〇〇メートルと飛び抜けていますが、深淵池はそれに次ぎます。大海池の深さは「平均弐尺八寸」(約八十五センチメートル)と浅いですが、深淵池は「平均三尺八寸」(約一一五センチメートル)をはかります。
 現在、三宅地区のため池の管理や維持は、三宅町土地改良区が行っています。田畑に水を送るパイプラインが縦横に敷設されていますが、その際、元池となっているのが深淵池と大海池です。とくに、三宅西地区では深淵池を元に整備が行われ、深淵池の北堤下には平成二十年九月に建てられた三宅西地区深淵池下整備事業の「竣工之碑」が見られます。また、これに先立つ平成五年八月には、阪神高速道路大和川線南側の出長池に三宅西地区の「竣工之碑」が建てられました。
 深淵池の西堤北側には、パイプラインを管理・調整する揚水槽が設けられていますが、その西側は広大な運送会社の敷地です。気をつけて見ると、深淵池北堤がずっと西へ会社敷地と松原第二中学校を分ける道として、ほぼ同じ高さ・幅で校庭西側まで続いています。
 実は会社敷地は深淵池と中堤をへだてて水をたたえていた太池を昭和五十六年に埋めたものでした。太池がいつ掘られたかはわかりませんが、先の『三宅村明細帳』には「長五拾八間、横五拾」とあり、約一〇〇メートル前後の池でした。太池の南堤が、田井城村の田井城墓地と接しているように、江戸時代、と書くこともありました。
 三宅と天美を結ぶ太池堤は、今も多くの人たちが行き来していますが、下の田畑からは一段と高く、江戸時代はとよばれ、農民が役人ののために案内した道でした。
 江戸時代、農民は領主に納めるの徴収に腐心しました。三宅村は江戸時代前半までは幕府領でしたが、二年(一七一二)以後は幕府領と関東の大名であった氏の領地となっていきました。三宅村には、年間(一七三六?四〇)の凶作時に領主に年貢負担を軽減してもらいたい、あるいは年貢納入の延期を嘆願したという古文書が残っています。
 太池の北堤の下では、小高い堤の陰で稲の成育が悪かったので、収穫を実見する検見役人をわざわざここへ案内して、「これだけ稲が不作で、満足な年貢を納めることができません」と実際の田畑を見せ、不作を強く訴えたのでした。
 太池は埋められましたが、北堤は改良区が管理する歴史の検見道として残り、西堤も田井城へ抜ける「花と緑の通り道」として利用されています。

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