158 「河内音頭 岩井富丸碑」

更新日:2018年12月13日
河内音頭岩井富丸碑の画像

「河内音頭岩井富丸碑」(新堂5丁目・新堂墓地)
西除川右岸沿いにある新堂墓地内には、江戸時代後半以降の新堂の名医であった井岡家(「歴史ウォーク」131・132)、幕末の大工棟梁の伊藤利助(同133)、河内相撲力士で文化3年建立の今藤、明治11年建立の都石(同93)などの墓石も見られる。

音頭取りの新堂・伊藤富松 「河内十人斬り」で大好評

 ♪エーエンさァアてはーアァー一ィ座ァアの皆さまえー・・・・♪ で始まる河内音頭に乗った盆踊りが、夏の風物詩として各地で催されます。
 河内音頭は、明治初期に北河内の音頭取り歌亀が始めた節から形が整ったと言われています。ただ、現代のように大太鼓に合わせたリズミカルなものではなく、地域ごとに節回しや文句も違っていました。
 明治26年(1893)5月、南河内郡千早赤阪村水分で「河内十人斬り」とよぶ、地元の男性2人が10人もの男女を斬殺した事件が起こりました。この時、富田林警察が捜査にあたったことから、署長の人力車夫であった内田梅吉は、署長を乗せてたびたび現地を訪れ、その全容を知るようになりました。梅吉は、現在の富田林市川西新家字岩井に住む音頭取りとしても有名でした。そこで、この事件を同じ音頭取りでもあった現河内長野市西代の松本吉三郎に話して台本を書いてもらい、梅吉節ともよばれる江州音頭を改良した節回しで始めたのでした。話し言葉を早口で読み、今では「サァー」「アイサァー」などを接続詞的に織りこんでいます。
 梅吉は、生地の小字名を取って岩井梅吉と名乗り、翌6月から大阪・道頓堀の芝居小屋などで「河内十人斬り」の興業を行い、大人気を博しました。
 梅吉節は、大衆に長く愛され、現堺市日置荘の東口竹丸が2代目岩井梅吉を名乗り、そして、大正期に3代目岩井梅吉を継いだのが松原村新堂の伊藤富松だったのです。
 富松は、融通念仏宗の浄光寺(新堂3丁目)を檀那寺としていた伊藤好枩の長男でしたが、家を弟に譲り、音頭の世界に飛びこんだのでした。富松は、南河内で生まれた梅吉節に惚れ込み、岩井富丸の芸名で活躍しました。現在、松原小学校が建つ場所は、もともと下の池が水をたたえており、昭和前期まで池東側の土堤の北(現上田5丁目)に芝居小屋がありました。富丸は、ここで「河内十人斬り」を目玉とする常設の音頭興行を行ったのです。また当時、わが国はドイツと第一次世界大戦(1914から18)を戦っていましたが、富丸は、紀淡海峡にのぞむ現和歌山市深山に設けられていた守備陣地を慰問したこともありました。
 大正10年(1921)6月、音頭仲間たち有志は、新堂墓地(新堂5丁目)の伊藤氏墓域に立派な富丸碑を建立しました。「河内音頭岩井富丸碑」と正面に刻み、基礎石に「有志中」と入れています。手前の香華台には「伊藤」の名を記しており、生前墓でもあったのです。
 富丸は、昭和2年(1927)7月3日に亡くなりました。浄光寺に「新堂住人」の添書とともに、富丸の命日と、「大融浄音信士 富丸」という戒名が過去帳に残っていました。享年は書かれていませんが、50歳前後だったといわれています。富丸は、上田の興行小屋の南側近く、中高野街道沿いの自宅から「岩井富丸碑」の墓所まで野辺送りされ、土葬で祀られました。
 富丸らが受け継いだ河内音頭は、いまでは伝承河内音頭保存会・宗家岩井会と名乗り、河内長野を本拠に、8代目岩井梅吉さんによって伝統が守られています。

カテゴリー

お問い合わせ

松原市 市長公室 観光・シティプロモーション課

〒580-8501大阪府松原市阿保1丁目1番1号

電話:
072-334-1550(代表)