32 河内鋳物師の工房

更新日:2018年12月13日
岡遺跡(第2次)の発掘の画像

岡遺跡(第2次)の発掘
府営松原岡住宅の北側、岡交番の新築に伴い調査が行われた(1999年8月12日撮影)。

松原は鉄製品の一大産地だった?

 市域南部の岡・立部・丹南から美原町および堺市東部のあたりは、河内鋳物師とよばれた職人集団の居住地として有名です。

 河内鋳物師は、平安時代末期から鎌倉・室町時代にかけて、全国に出向いて梵鐘を鋳造し、鍋・釜・鍬・鋤などの製品を作り、売り歩いていました。彼らの足跡は、全国に残る「大工河内国丹南郡」などと記された梵鐘銘によってよく知られています。

 美原町真福寺・太井(たい)・余部(あまべ)や堺市日置荘(ひきしょう)の各遺跡が発掘され、河内鋳物師の生産活動や暮らしぶりがわかってきました。本市でも中央環状線沿いの立部2丁目の観音寺遺跡、竹ノ内街道に面した市営柏木(かやのき)住宅地(立部5丁目)の立部遺跡、そして岡2丁目の岡遺跡で鋳造に関わる遺物や遺構が見つかっています。

 このうち、岡遺跡は平成4年、府営松原岡住宅の建て替えに伴い、大阪府教育委員会によって調査されたものです。河内鋳物師の工房跡が、平安時代末期から室町時代後半(12~15世紀)にかけて確認されました。

 とくに遺構の中心は、河内鋳物師が源平合戦の戦乱で焼かれた奈良・東大寺の大仏の首を修復して脚光を浴びた鎌倉時代前半(13世紀初め)にあたります。

 調査地区では、銅や鉄の塊を溶かすための「こしき炉」とよぶ溶解炉が2カ所見つかりました。これは、地面に浅い穴 (直径0.9メートル、深さ0.2メートル)を掘ってモミ殻などを混ぜた粘土を張りつけ、炉壁や底をつくったものです。炉内には、溶けた銅や鉄の残りかすがアメ状に固まっていました。

 地上部の炉壁には、「ふいご」からの送風管を取りつけた穴が1カ所残っており、鋳型を設置した土坑2カ所も見つかりました。

  ほかにも、鉄を溶解する過程で生じる不純物の鉄滓を集めて捨てた直径2メートル、深さ0.7メートル以上の土坑も全国で初めて検出されました。捨てられた鉄滓(てつさい)は、3.6トンにもおよんでいました。

 岡の工房では、鋳型の厚さや湾曲の度合いから、梵鐘や大型の鍋・鉄瓶・茶釜などを大規模に鋳造していたことが予想されます。

 鋳造遺構の南側から南北20メートル、東西5メートルにおよぶ2間×9間の大型建物跡も検出されました。調査地周辺は当時、京都・広隆寺が所有する松原荘でした。広隆寺文書には、「松原荘の鋳物師の年貢が免除されていた」(宝徳3年・享徳元年・享徳2年)と記されています。このことから、この大型建物は荘園に関わるものとも考えられ、河内鋳物師が松原荘の庇護を受けていたと想像されます。

  この8月、先の遺構の北側、岡住宅集会所横で調査が再開されました。前回に引き続き、府教委の西川寿勝さんの担当です。奈良時代後期の遺物や柱穴が検出されましたが、今のところ鋳造遺構は確認できず、工房はこの区域までは広がっていなかったようです。

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