45 若林の陣跡と若林神社

更新日:2018年12月13日
若林神社の画像

若林神社(若林1丁目)
鎌倉末期の元弘~建武年間(1331~35)に、小川5丁目の深居神社から分祀されたと伝える。品陀別命を祀る。

河内守護の畠山氏と将軍家・戦国群雄の攻防

室町時代の河内国は、将軍家の足利氏一族である畠山氏が守護となり、軍事・行政機関を支配していました。

この、畠山氏の後継者争いから、京都で応仁の乱(1469~77)が起こったことはよく知られています。文明9年(1477)、西軍の畠山義就は京都を出て河内に向かいました。ここに、応仁の乱は一応終結します。しかし、義就が河内にとどまることは、京都に残る将軍足利義材や東軍の畠山政長との間で、激戦が河内で起こることを意味していました。

やがて義就は死去し、息子の基家がその跡をつぐや、明応2年(1493)2月、義材や政長は京都を出て基家を討つため、河内国正覚寺(大阪市平野区)に陣をおきました。
基家は古市(羽曳野市)の高屋城におり、そこが河内支配の拠点でした。このため、正覚寺と高屋城の中間地の本市域は重要拠点となり、とくに、若林は前線基地となりました。

明応2年3月2日、高屋城攻めの畠山播磨守に率いられた数千の軍勢が若林に布陣したと『蔭涼軒日録』にあります。 この時、市内では三宅にも500の軍勢が配置されていました。

この明応の合戦後、政長の息子の畠山尚順が高屋城を奪い、やがて基家は自害します。その後、両畠山氏はいったん和睦しますが、大永7年(1527)、基家の孫の畠山義尭が幕府の実力者であった細川晴元とともに挙兵し、畿内は再び混乱におちいりました。

『細川両家記』によると、天文16年(1547)8月、尚順の跡を継いだ息子の畠山政国を高屋城に攻撃するため、晴元方の三好長慶の軍勢が摂津から河内へ討ち入り、ここでも若林に陣を取っています(「歴史ウォーク」44)。この年は合戦で明け暮れましたが、翌17年になって三好・畠山両軍は和睦し、若林の陣も解かれるのです。

永禄3年(1560)7月にも、三好長慶らの軍勢は、政国の後、高屋城主となった畠山高政を討つため、守口から玉櫛・若江(以上、東大阪市)に攻め寄せ、ついで太田(八尾市)・若林を経て、藤井寺に陣取りました。

このように、若林は中世史書に戦場として登場しますが、同地では若林1丁目に鎮座する若林神社が微高地の最高所にあたります。

江戸時代前半、延宝年間の「若林村絵図」に、同社は八幡宮とあり、今とは比べられないほど広大な境内地が森で囲まれています。 同地が小字「若林」であるうえ、鎮守の森が陣取場になりやすいことから、神社付近が戦略拠点にふさわしい場所だったのでしょう。

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