79 「ちちかみはし」と歯神社

更新日:2018年12月13日
「ちちかみはし」道標の画像
歯神社の画像

「ちちかみはし」道標(上田1丁目)と歯神社(上田7丁目)
柴籬神社に合祀された歯神社前に「歯磨き面」が設置され、さわると歯痛にならないと言われ、人々に信仰されている。

愛児に乳を含ませたまま絶命した母の悲しい伝説

 上田1丁目の松原郵便局前に、正面には「ちちかみはし」、両側面に「長尾街道」、裏面に「明治四十三年二月修繕、大阪府」と彫られた道標があります。堺と大和を結ぶ長尾街道に建てられたモニュメントですが、「ちちかみはし」の名に興味をそそられる人も多いのではないでしょうか。

 「ちちかみはし」には、次のような悲しい伝説が残されています。
 「遠い昔、京から来た高貴な身分の母親が愛児に乳房を含ませていました。子どもは母親の乳に満足してスヤスヤと眠っていましたが、急にむずかり、口に含んでいた乳房を歯でかみきってしまいました。このため、母親は愛児を抱いたまま亡くなったのです」

 新堂1丁目の松原中学校方面から北流してきた今井戸川は、近鉄河内松原駅の西側線路をくぐります。やがて、上田1丁目の長尾街道にぶつかる字「中門」で西流する本流と東流する支流に分かれていきます。
 江戸時代、「中門」には堰樋が設けられていました。そこは、阿保村の海泉池から三宅村の大海池に至る用水の取水掛口でした。東と西に分岐する水流の堰高を定める享和元年(1801)7月の分量石がいまも残されています。灌漑領域の上田村や三宅村の人々が立ち会って決めた碑文も見られます。
 「中門」から西へ200メートル進むと先の道標があり、ここに「ちちかみはし」が架けられていたのです。愛児が母親の乳房を歯でかみきった所でしたので、橋の名となりました。

 川は街道に平行する南側では暗渠となっていますが、松原警察署の東側からは北へ向きを変えます。
 「ちちかみはし」の悲しい伝承は、のち人々の哀れをさそいました。「ちちかみはし」と「中門」の真ん中、街道の南側に住吉神社が祀られていました。同社は、上田村反正山地区の氏神ですが、村人は祭神の住吉大神と共に、亡くなった母親や乳をかみきった愛児を歯神として同社に合祀したのです。このため、住吉神社は歯神社ともよばれるようになりました。

 住吉神社は、室町時代の永禄年間(1558~69)の創建と伝えています。柴籬神社(上田7丁目)の神宮寺であった観念寺の法印秀盛が勧請しました。境内は東西22メートル、南北6メートル。本殿は一間社流造りでした。明治初年に柴籬神社に合祀され、現在は社務所の真向いに祀られています。
 なお、「中門」の名は五世紀前半、反正天皇が都とした丹比柴籬宮(「歴史ウォーク」7)の中門があったという伝承からつけられました。柴籬宮の推定地である柴籬神社に合祀された歯神社では、歯(は)にちなみ、毎年八月八日八時八分から祭礼が行われています。

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