102 文化遺産の保田佐久三像

更新日:2018年12月13日
保田佐久三像

保田佐久三像(阿保5丁目)
正装姿の等身大。北向きに建つ。
台石には「請負人 藤井寺 石留」「細工人 石秀」とある。
制作者の黒岩・高尾については、大阪歴史博物館の伊藤純氏にご教示いただいた。

加藤高明・藤澤黄鵠の書黒岩淡哉・高尾定七の作

 18世紀中期以前に建てられた阿保5丁目の保田敬三さん宅(「歴史ウォーク」101)の東隣に、保田佐久男さん宅があります。同家は幕末の万延元年(1860)12月、本家の保田(敬)家より分家したといわれています。現住宅は、明治10年代の様式を残しています。
 幕末のころ、本家当主は十九代の保田仁兵衛でしたが、弟の源左衛門は分家して、名も忠太と改めました。6年後の慶応2年(1866)3月、忠太に男の子が生まれました。佐久三と名づけられ、忠太が明治19年に亡くなった後、佐久三は二代当主となったのです。
 保田さん宅に、佐久三の銅像が建っています。正面台石に「保田佐久三君像 子爵加藤高明 書」とあり、向かって右側に佐久三の事績が藤澤黄鵠によって記されています。左側には、「大正十二年六月上旬建立」、「発企人」として、松原村の人々の名が27名刻まれています。裏側には原形制作の黒岩淡哉、銅像制作の高尾定七の名が見られます。
 佐久三は、明治22年の松原村発足とともに初代収入役となり、同36年には三代助役に就任しました。同40年まで助役をつとめた後、同42年には二代松原村長につき、大正11年まで村政を担いました。
 その間、佐久三は明治40年から大正8年まで、大阪府議会議員にもなりました。とりわけ、明治44年から大正4年まで、府会郡部会副議長として、中河内郡を代表する政治家として活躍しました。当時は、今と違って村長をつとめながら、府会議員を兼務することができたのでした。
 佐久三像は、大正12年に、松原村の人々が地域行政に尽くした佐久三を称えて建立したものです。
 本像が歴史的に意義を持つのは、一つには加藤高明が佐久三銘を書いたことがあげられるでしょう。加藤は政党の立憲同志会や憲政会の総裁として、桂太郎内閣や大隈重信内閣の外相となった後、貴族院議員に選ばれ、大正13年には内閣総理大臣になりました。
 二つ目は、儒学者であり衆議院議員でもあった藤澤黄鵠が碑文を書いていることです。黄鵠は、大阪の儒学の塾として有名な泊園書院の藤澤南岳(「歴史ウォーク」100)の長男で、漢詩の才能は父に劣らないほどでした。
 三つ目は、関西彫塑界の生みの親ともいうべき彫刻家の黒岩淡哉が制作したことです。淡哉は東京美術学校教員として、朝倉文夫や高村光太郎を指導しました。大阪へ移った後、四天王寺の普賢菩薩像、四条畷の小楠公像、山科の蓮如上人像の大作を残しました。また、高尾定七は大阪市東区瓦町4丁目で鋳造を行った工人で、京都の北野天満宮の銅製狛犬や広島県大野町の子持観音像が有名です。
 佐久三は昭和15年、77歳で亡くなりましたが、本像は文化遺産として保存されるべきでしょう。

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